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項目構成
前1200年ごろ、新たな民族移動の動きが西アジアの様相を一変させた。「海の民」とよばれる雑多な民族集団がバルカン半島付近からあらわれ、アナトリアのヒッタイト帝国を崩壊させ、シリアやパレスティナに流入した。アッシリアの北西部は、ムシュキとよばれるインド・ヨーロッパ系の民族があらわれ、アッシリアの脅威となっていた。また西部ではセム系の遊牧集団アラム人の動きも活発化していた。アッシリアはこのような新たな外敵の攻撃や圧力に対して盛んに抵抗し、この生存をかけたはげしい戦闘の中から、残酷さで悪名高い軍隊「戦争機械」をうみだし、中東地域全体の恐怖の的となった。 ティグラトピレセル1世(在位、前1115~前1077)は、アラム人やムシュキから国境を防衛するために、はるか北のウラルトゥ国の支配下にあったワン湖付近や、西のパルミュラまで侵入した。たいていの場合、侵入された地域の人々はアッシリア軍が近づくとすぐ逃走したが、のこった人々は皆殺しにされるか、捕虜としてアッシリアへつれていかれた。アッシリア軍の目的は侵入した地域を併合することではなく、町や村を略奪し、破壊することにあった。しかしやがて、彼らの征服の仕方は変化し、征服した土地を領土にくみいれ、それによってできる新しい領土国家の中心にアッシリアをおくようになった。
アッシュールナシルパル2世(在位、前883~前859)は、アッシリアの領土を北方および東方にひろげ、戦いにつぐ戦いの中で、帝国に隣接する地方を荒廃させた。しかし、北のウラルトゥ、南のバビロニア、西のアラム王国といった力のうわまわる近隣諸国には攻撃をしかけなかった。彼はアッシュールにかわる新首都にカルフをえらび、アマヌス山脈からうばいとってきたレバノン杉でカルフの町を再建した。カルフの遺跡からはアッシュールナシルパルの数多くの文書が出土している。 アッシュールナシルパルの子シャルマネセル3世(在位、前858~前824)は、35年の治世中に32回の戦いをおこなった。そのほとんどはユーフラテス川の西の地方、とくに強力なアラム王国に対するもので、いくつかの戦いには勝利し、イスラエルなど、アラム王国の同盟国からかなりの貢税をえた。現在、大英博物館にあるシャルマネセルの2つの記念碑はとくに注目に値する。ひとつは、イスラエルの王が彼の足に口づけする姿をえがいた「黒いオベリスク」、もうひとつは「バラワトの門」として有名な青銅製の額である。
シャルマネセルの治世の末期、宮廷で争いがおき、数年間にわたって内戦がつづいた結果、アッシリアの力は数十年にわたって衰退し、多くの領土をうしなった。しかし前744年にティグラトピレセル3世が王位につき、アッシリアを世界帝国へと発展させる動きがはじまった。彼はおもに被征服国や属州から集めた人々からなる常備軍をつくり、征服した民族をアッシリア領内に移住させ、民族として結束することや、民族意識をとりもどすことを封じた。 ティグラトピレセルの後継者シャルマネセル5世の次に王位についたサルゴン2世(在位、前721~前705)は、帝国の領土をさらに拡大し、その支配地域はアナトリア南部からペルシャ湾にまでいたった。彼は治世の始めにイスラエル王国を属州とし、ついでウラルトゥとメディア王国を攻撃、シリアやアナトリア南部のひろい地域を併合しただけでなく、ティグリス河谷中央部のアラム人やユーフラテス河谷下流部のカルデア人をうちやぶった。 エジプトとの国境からザグロス山脈まで、そしてタウロス山脈からペルシャ湾にいたる広大な帝国を効果的に支配するために、国内を70の地域にわけて王に直属する知事をおき、首都カルフでは中央集権体制をつくりあげた。治世の晩年には新首都ドゥル・シャッルキン(サルゴン城の意)を建造し、王宮を印象的な浅浮彫でかざった。またニネベに図書館をたてたほか、彼の治世で交易や農業は大いに発展した。 センナヘリブ(在位、前704~前681)は、父サルゴン2世が征服した領土を維持しただけでなく、エジプト国境にせめこむこともあった。父と同様、センナヘリブも首都をかえ、ドゥル・シャッルキンからニネベにうつし、そこに王宮をたてた。バビロニアがふたたび勢力を回復してくると、聖なる古都バビロンを完全に破壊し、水路をほって町を水浸しにした。 しかし彼の息子エサルハドン(在位、前680~前669)は、バビロンに対して好意的で、その再建をたすけた。エサルハドンのおもな軍事的な功績は、エジプトの国境をこえ、首都メンフィスを攻略したことである。その子アッシュールバニパル(在位、前668~前627)はエジプトとの戦いをつづけ、さらに南下してテーベまで侵入した。また、東のエラム王国に対しては首都スーサの略奪もおこなった。アッシュールバニパルは、征服者としての名声とは別に、ニネベの図書館に数多くの粘土板文書をあつめたことでよく知られている。
アッシリアの文化は多くの点でバビロニアのものと似ている。たとえば、アッシリアの文学は、王の年譜をのぞけば、実質的にバビロニアのものと同一であり、文字もバビロニアの楔形文字をわずかにかえたにすぎない。アッシュールバニパル王をはじめ、アッシリアの教養ある王たちは、バビロニア文学の写本を数多く図書館に所蔵することを誇りにしていた。アッシリア人は、美術や建築の分野においてすぐれた能力を発揮した。 社会や家庭、結婚の習慣、財産に関する法律などもバビロニアのものと似ており、これまでにみつかっている3つのアッシリアの法律集も、すべてシュメールとバビロニアの法律に似ている。ただしアッシリアの法律では、罪人に対する罰はしばしばもっと残忍で、野蛮だった。
前627年にアッシュールバニパルが死去すると、広大な帝国を維持していくことが困難となり、また宮廷内で内紛もおき、力は急速に弱まった。そして、メディア人とバビロニア人によって、前614年にアッシュールを、前612年にはニネベも攻略された。アッシリア帝国最後の王アッシュールウバリト2世は、首都ニネベから北西方向にはなれたハランの地まで後退したが、この敗北がアッシリア帝国の実質的な最後となった。
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