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現在のイラン地域に対するヨーロッパ人の慣習的な呼び名。イラン人自身は自分たちの国をイーラーン(アーリヤ人の国の意)とよんでいた。ペルシャという呼び名は、パフラビー朝が1935年に国名を正式にイランとさだめて以降は、ふつうイスラム以前のイランをさす。とくに慣習的にペルシャとよばれたのは、古代のペルシャ帝国のことである(7世紀にアラブ人がこの地を征服して以降の歴史、および現代のイランについては、イラン参照)。
ペルシャ人は、前1000年ごろウルミエ湖南西のパルスア地方から南部のイラン平原に移住してきたとされる。彼らはその土地をパールサまたはパルスマシュとよんだ。ペルシャは、このパールサに由来する。ペルシャ人の最初の傑出したリーダーは、アケメネス朝の祖となった前700年ごろの族長アケメネスだった。そのころペルシャはメディア人に支配されており、前550年にアケメネス朝第5代の王キュロスがメディア人の支配者をたおし、前546年にリュディア王国を、前539年には新バビロニア(→ バビロニア)を征服してペルシャ帝国をうちたてた。 キュロスの息子で後継者のカンビュセス2世は、エジプトを征服し(前525)、さらに東はインダス川まで領土をひろげた。ついで、前522年に王位についたダレイオス1世は各地の反乱をおさえて帝国全体を再構築し、大王の称号をえた。
前5世紀初めにペルシャ領内の小アジアでギリシャ系イオニア人が反乱をおこすと、ダレイオスはこれを鎮圧し、反乱を支持したギリシャ本土に対する征討を開始した。これがペルシャ戦争である。しかしペルシャ軍は、前490年に史上有名なマラトンの戦で大敗北し、ダレイオスはギリシャに対する次の遠征を準備している間に世を去った。息子で後継者のクセルクセス1世は父の計画を実行しようとしたが、サラミスの海戦でやぶれ(前480)、さらに翌年陸上での2度の戦いにもやぶれた。 クセルクセスの子アルタクセルクセスの治下に、エジプトがギリシャとむすんで反乱をおこし、最終的には制圧されたが(前454)、この反乱がペルシャ帝国の衰退の始まりとなった。
次の世紀には多くの反乱がおき、マケドニアのアレクサンドロス大王の遠征が追い打ちをかけた。アレクサンドロスは前334~前331年の一連の戦いでダレイオス3世軍をやぶり、ペルシャ帝国を征服した。彼は大量のペルシャ兵をやとうことで、自分の帝国の中にペルシャ人をとりいれ、いっぽう、多くのマケドニア人の部下をペルシャ人女性と結婚させることで民族の融合をはかった。 前323年に大王が死去すると、彼の将軍たちの間でペルシャの王位をめぐって争いがおき、セレウコス1世が最終的に勝利をおさめた。セレウコスはバビロニアを征服(前312)したあと、かつてペルシャ帝国の領土だった小アジア、シリア、そして東はインダス川までの土地を併合し、セレウコス朝をひらいた。ペルシャはその後、前2世紀にセレウコス朝がたおれたあとはその属国だったパルティアのものとなり、5世紀にわたって独立をはたせなかった。
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