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1714~87 ドイツの作曲家。オペラの改革をめざした作品は、のちの時代にまで強い影響をおよぼした。 1714年7月2日、ドイツのエラスバハ生まれ。狩猟場監督官の息子。コモタウ(現チェコ共和国のホムトフ)のイエズス会のギムナジウムで音楽の基礎をまなび、プラハとミラノで修業をつむ。ミラノではイタリアの作曲家サンマルティーニに師事。 最初のオペラ「アルタセルセ」は1741年にミラノのドゥカーレ劇場で初演される。その後の9年間に、「ラ・ソフォニズバ」(1744)や「アルタメーネ」(1746)など、約16作のオペラを作曲し、ヨーロッパのさまざまな都市で上演。50年、ウィーンに腰をおちつけ、ナポリ、ローマ、パリに滞在した時期をのぞき、終生この地にくらす。54年、オーストリア大公マリア・テレジアによって宮廷劇場のオペラ監督に任命される。50~60年に作曲したオペラには、「ティト帝の仁慈」(1752)、「アンティゴノ」(1756)がある。
当時のオペラは、歌手の名人芸的技術や美声が誇示できるように(→ カストラート)音楽がつくられた。グルックも1762年までは慣例的な様式で作曲をつづけた。しかし、経験をつむにつれて、表面的な華やかさや過度の装飾ばかりが目をひくイタリア・オペラの風潮に満足できなくなっていた彼は、言葉によってつたえられるオペラの意味や内容、感情を音楽でも表現するというオペラ本来の目的を回復しようと、一方で新たな様式の開発にとりくんでいた。同じ仕事場ではたらくフランスのバレエ改革家ノベールと緊密な関係にあったことも、オペラ改革への布石となった。 さらに1760年ごろ、イタリアの詩人カルツァビージと知りあう。この詩人は、言葉と音楽の本来のバランスをとりもどそうとするグルックの理想にぴったりの台本を提供した。彼らの努力は62年にウィーンで初演された「オルフェオとエウリディーチェ」に結実した。このオペラは、それ以前のグルックのどのオペラよりも壮大で、品格があり、劇としての品質にもすぐれ、初演されるや大成功をおさめた。この「威厳ある手法」で書かれた改革オペラには、カルツァビージの台本による「アルチェステ」(1767)と「パーリデとエーレナ」(1770)のほか、「オーリドのイフィジェニ」(1774)、「アルミード」(1777)がある。 グルックの開始したオペラ改革に対して、猛然と反論をとなえる動きが生じた。この傾向はとりわけパリで顕著となり、1774~81年には同地でグルック支持派とナポリ出身のオペラ作曲家ピッチンニを擁護するグループとの間で全面的な論争が展開された。渦中の二人にパリ・オペラ座監督は、同じ台本のオペラ「トーリドのイフィジェニ」の作曲を依頼する。79年にパリで初演されたグルック作品は傑作と評価され、81年に上演されたピッチンニ作品よりもすぐれていると判定された。 グルックの改革は、オペラ史上に永遠にのこる結果となった。彼によって確立されたさまざまな原則は、後世の多くの作曲家に影響をあたえた。その中には、モーツァルト、ケルビーニ、ベートーベン、ワーグナーらがいる。1787年11月15日、ウィーンで死去。
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