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1798年12月、ナポリの人々は教皇領からフランスをおいはらおうとしたが、撃退された。99年1月、ナポリは占領され、パルテノペーア共和国がつくられた。同じころ、フェルディナンドは英国艦隊の援護をうけてふたたび王位についた。同年、ナポレオン・ボナパルトがナポリ王国を征服し、その兄ジョセフを王位につけた。一方、フェルディナンドはシチリアの統治をつづけた。1808年にジョセフの後をついでミュラがナポリ王となったが、15年にミュラが失脚すると、フェルディナンドはふたたびナポリ王となった。16年の終わりに、彼はナポリとシチリアを両シチリア王国に統一すると同時に改革の約束を破棄した。
1820年、ナポリ領内で立憲政治を確立しようとする軍の暴動がおこり、カルボナリ党とよばれる革命的なグループがこれにくわわった。フェルディナンドは憲法に関するいかなる譲歩もしないと、オーストリアとの間で合意していたにもかかわらず、その要求をうけいれた。シチリア島では同時に、自治をもとめる革命運動がおこっていた。その後、21年のライバハでの列国会議の決定で、オーストリアはフェルディナンドを絶対君主の地位に復帰させた。25年にフェルディナンドの子フランチェスコ1世が後をつぎ、30年フェルディナンド2世がその後をついだ。 1843年以降、イタリアの愛国主義者マッツィーニによる共和国構想が、イタリア南部で強い影響力をもった。48年のはじめにシチリア島民は反乱をおこし、島民に立憲議会制をあたえることをフェルディナンド2世にみとめさせたが、島民はこれだけでは満足せず、フェルディナンドの退位を宣言した。フェルディナンドは、ナポリ領内では反動派の支援をうけて革命運動をおさえることに成功した。同年9月、彼の軍隊がシチリア島に入り、翌49年5月パレルモが降伏したことで、シチリア島の革命はおわった。 1859年、フェルディナンド2世の子フランチェスコ2世が後をついだ。60年に北イタリアがオーストリアの支配から解放されたのち、イタリア人の民族主義者ガリバルディは1000人の義勇兵とともにシチリア島に上陸し、島を制圧した。61年にシチリアは新しいイタリア王国にくみいれられた。 しかし北イタリアのピエモンテの勢力がひきいる統一政府は、南部に対して理解をしめさず、重税と徴兵をともなった中央集権化政策をとった。南イタリアの不満は大きくなり、1866年にパレルモで反乱がおきたが、失敗におわった。87~91年と93~96年には、シチリア生まれのクリスピが首相だったが、北部と南部の関係はよくならなかった。労働者と農民は団結して反王国運動を展開したが、クリスピは94年シチリアに戒厳令をしいた。相互不信をつのらせた南北関係は、イタリアが第1次世界大戦に参戦した1915年になってもつづいた。 戦後の1922年、ファシストが政権をうばいとると、ムッソリーニはマフィア撲滅運動にとりかかり、きびしくとりしまった。第2次世界大戦中の43年7月9日、10日の夜、アメリカ、カナダ、イギリスの連合軍は北アフリカからシチリア島に上陸、その38日後、シチリアを制圧した。この上陸作戦はヨーロッパ進攻の最初の作戦で、ムッソリーニの失脚と、その数週間後のイタリア政府の降伏をもたらした。
1948年の憲法のもとで、シチリアはイタリアの特別自治州となり、大きな自治権があたえられた。州議会は、選挙でえらばれる議員で構成され、州知事を長とする。 シチリアでは工業化がすすまず、あまった労働力をうまく吸収してこられなかった。そのため、多くのシチリア人は北イタリアやドイツ、スイスに移民し、南北アメリカやオーストラリアにもわたっている。同時に、シチリアではマフィアがふたたび力をもりかえし強い影響をあたえている。マフィアは現代のイタリアにとって、常に深刻な問題となっている。
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