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  • 駐日エクアドル共和国大使館

    Embassy of Ecuador in Japan Ecuador y Japón tienen similitudes más profundas que las que usualmente se perciben. Ambos comparten geología volcánica que en la vida diaria sus poblaciones disfrutan en los baños termales, llamados onsen en Japón.

  • .:: The Embassy of Ecuador in Japan ::.

    在日エクアドル大使館公式ホームページ エクアドルと日本には一般的に知られている以上に深く類似した点があります。両国とも火山を有しており人々は温泉を日常的に楽しんでいます。

  • エクアドル - Wikipedia

    エクアドルは農業国だが、生産が輸出商品作物の栽培に偏っていること、農地の所有制度に問題が残ることから、必ずしも国民の生活・福祉を支えるものとはなっていない。 農地の地域分布は山地と海岸平野に二分される。

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エクアドル

エクアドル Ecuador
百科事典項目
項目構成
1

スペインの支配

1526年バルトロメ・ルイスにひきいられたスペイン人一行が現在のエクアドルの海岸にはじめて上陸した。32年、ピサロが指揮するスペイン人がこの地に侵入してインカをほろぼし、2年後、一帯を支配下においた。ピサロは40年12月、弟のゴンサロをキトの総督に任命した。その直後、ピサロは暗殺され、ゴンサロはスペインに反旗をひるがえして単独支配をつづけたが、48年4月、スペイン軍はハキハワナでゴンサロ軍をやぶり、ゴンサロを処刑した。

エクアドルの地域は最初、16世紀スペインのアメリカにおける二大行政区のひとつペルー副王領(副王制)にふくまれたが、18世紀にはヌエバグラナダ副王領になるなどの変遷をたどった。

スペインに対する最初の蜂起(ほうき)は1809年におこった。ボリーバル将軍の副官スクレにひきいられた解放軍が最終的にスペイン軍を打破したのは22年で、エクアドルは現在のベネズエラ、パナマ、コロンビアをふくむグランコロンビアの南部領域となった。

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独立

1830年、エクアドルは独立した。初代大統領フロレスは独立戦争の英雄で、キトの保守派を代表した。33年、キトの保守派とグアヤキルの自由派の間で内戦がおこった。これは長期にわたる抗争の始まりだった。この抗争の中でエクアドルの歴史上有名な3人の独裁者が誕生した。保守党のフロレス、モレノと自由党のアルファロである。アルファロがふたたび大統領の座についた1907~11年に、比較的リベラルな新憲法がさだめられた。

エクアドルは第2次世界大戦では連合国側についた。1944年、自由党のアロヨ・デル・リオにかわって保守党のベラスコ・イバラが大統領にかえりざいた。45年、国際連合(国連)の原加盟国となった。同年12月31日に新憲法が公布され、この憲法は67年までつづいた。

1947年ベラスコが軍事クーデタで政権をおわれた直後に反革命がおこり、フリオ・アロセメナが臨時大統領となり、翌年6月、元駐米大使プラサ・ラソが大統領に選出された。同年、ボゴタで開かれた第9回米州諸国会議に出席し、米州機構憲章に調印した。

長期にわたってつづいてきたペルーとのアマゾン地域での国境紛争が1941年に再燃した。42年には新国境を画定するリオデジャネイロ議定書に調印するが、50年、60年にも紛争は再燃した。リオデジャネイロ議定書を、エクアドルは強制されたもので無効と主張しつづけ、その後も武力紛争などがおきた。

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不安定な政局

1952年ベラスコは、左右両派連合の候補者として3度目の大統領選に出馬して当選、56年まで政権を維持した。56年の大統領選では、保守党のポンセ・エンリケスが自由党候補者をやぶった。60年の大統領選では、無党派の候補として立候補したベラスコが、ポンセ政権の保守主義的経済政策を痛烈に批判して広範な改革をおこなうことをうったえて当選した。しかし、効果的な改革プログラムをしめせなかったため、61年11月、辞任においこまれた。その直前、彼はアメリカから10年間にわたり援助をうけることを約束した「進歩のための同盟」文書に署名した。

ベラスコの後をアロセメナ・モンロイ副大統領がついだが、彼も長期政権を維持することができず、1963年7月、農地改革をふくめた経済、社会改革をとなえる軍部政治委員会にとってかわられた。64年、軍部政治委員会は「進歩のための同盟」協議会に開発10カ年計画を提出し、開発プロジェクトへの借款交渉をはじめた。まもなくそれは莫大(ばくだい)な財政赤字をもたらしたため、65年7月、2週間の暴動ののち、反政府派がうけいれやすい内閣が成立したが、政治的不安定はつづいた。66年3月、反政府デモが全国的な暴動に発展し、軍部政治委員会は政権の座からおろされた。

1966年11月まで暫定政権がつづいたが、新憲法制定をめざしておこなわれた総選挙で成立した議会は、アロセメナ・ゴメスを大統領に選出した。アロセメナ政権は多くの反対にあいながらも、67年5月、新憲法を発布。翌年6月、新憲法のもとで大統領選挙がおこなわれ、ベラスコがかえりざいた。ベラスコの第5期政権は成功しなかったが、70年まで軍部の協力を背景に独裁的支配がつづいた。72年、ふたたび軍部がクーデタをおこし、ベラスコをアルゼンチンに追放し、クーデタの指導者ロドリゲス・ララ将軍が大統領に就任した。

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新たな繁栄

新たな政権は農業、住宅、工業に重点をおいた経済5カ年計画を作成した。1972年、アメリカの会社が開発した新油田から産出された原油がはじめて輸出され、エクアドルはベネズエラについでラテンアメリカで2番目の石油輸出国となった。石油は外貨を獲得し、外国人の投資をふやしたが、同時にインフレがおこり、貧富の差が拡大した。

1976年、ロドリゲス大統領は退陣し、ポベダ・ブルバーノ海軍中将を議長とする執政評議会がひきつぐことになった。以後、数年間、インフレ圧力は弱まり、78年には新憲法に対する国民投票と大統領選挙がおこなわれた。79年4月、ハイメ・ロルドス・アギレーラが大統領となり、新憲法が発効した。

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経済の低迷

1981年5月、ロルドス大統領は飛行機事故で死亡し、弟のレオン・ロルドス・アギレーラが副大統領となり、元副大統領のウルタード・ラレアが大統領となった。84年5月の大統領選では、保守派の実業家レオン・フェブレス・コルデロ・リバデネイラが決選投票で左派候補をやぶった。フェブレス・コルデロ政権は頻繁にくりかえされる軍部の反乱に手をやいた。

1988年の大統領選では、民主左翼(ID)のロドリゴ・ボルハ・セバジョスが決選投票の末、大統領に選出された。また92年8月の選挙では、キリスト教社会党(PSC)からわかれた共和連合党のシスト・ドゥラン・ベジェンが大統領になった。ドゥラン政権は国営企業の民営化をすすめ、石油会社ペトロエクアドルを民営化する政策をとった。その他の政策としては、未利用の土地を貧農に解放せずに売却するという方針の農地改革をおこなおうとし、広範な反対運動にあった。

1994年の議会選挙ではドゥランの保守的政策への反対票が多かったが、同年の国民投票ではドゥランの提案した憲法改革案の大部分が承認された。95年1月、アマゾン地域でペルーとの国境紛争が再燃し、一時停戦協定がむすばれたものの、両国は事実上断絶関係にあった。しかし、リオ・グループの仲介もあり、97年から国境画定交渉がはじまり、98年10月に和平協定に調印し、99年5月には最終的に国境が画定している。

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