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項目構成
旧約聖書(→ 聖書)によると、絹は聖書の時代には西アジアで知られており、おそらく、そこからエーゲ海のギリシャの島々に移入(→ 帰化種)されたものと思われる。中国は前2世紀の漢の時代以前から西洋と絹織物の貿易をおこなっていた。古代ペルシャ宮廷は中国の絹をほどいて、ペルシャ様式に編みなおしていた。ペルシャがアレクサンドロス大王によって征服されたとき、ペルシャの王ダレイオス3世が、みごとな絹を身につけているのをみて、アレクサンドロス大王はおどろき、戦利品として絹を要求したとつたえられている。 シルクロードの陸路をとおる隊商は絹をラクダの背にのせ、アジアの中央部から東洋と西洋がまじわる商業の中心地であるシリアのダマスカスまではこんだ。ここで絹は西洋のぜいたく品と取り引きされ、そのいくつかが現在の中国にのこっている。絹はギリシャやローマでも貴重な品となり、ローマの政治家で軍人のカエサルは絹を自分専用のものとし、平時の正装用上着トガにつかおうとした。にもかかわらず、ローマにおいては絹は華やかさや権威を誇示するのに広く使用されるようになった。 中国では絹織物は輸出しても、カイコの国外への持ち出しはかたく禁止していたため、西暦550年まで、ヨーロッパで織られた絹は、すべてアジア産のものであった。そのころビザンティン帝国の皇帝ユスティニアヌス1世は2人のネストリウス派の修道士を中国につかわした。彼らは生命の危険をおかしてクワの種とカイコの卵をぬすみだし、杖(つえ)にかくし、ビザンティンにもちかえったとつたえられている。中国とペルシャによる絹の独占はここに終わりをつげることになった。
イスラム教の広まりとともに、カイコはシチリア(→ シチリア島)やスペインにまでつたわり、12~13世紀までにはイタリアがヨーロッパの絹の中心地となった。 「絹の都」といわれるフランスのリヨンの絹織物業は、15世紀にイタリアの絹織物工をまねいてはじめられた。17世紀には、新型の空引機(そらひきばた)の移入や政府の保護によって絹織物業はめざましく発展し、イタリアの地位をおびやかすようになった。当時、リヨン地方で確立された絹織り技術は、現在でも独特の美しさをほこっている。 プロテスタント(→ プロテスタンティズム)に信仰の自由をみとめたナントの王令が撤回されると、ユグノーの織工がフランスからイギリス海峡をこえ、ロンドンのイースト・エンドのスピタルフィールズに定住し絹織物工場をつくった。イギリスの絹織物工業は羊毛工業につぐ繊維産業になったが、カイコはイギリスの気候条件では繁殖せず、やがてイギリスは絹の輸入国へと転じた。 アメリカ合衆国におけるはじめての絹織物工場は1810年に設置された。力織機(→ 織機)が登場した後、南北戦争時に導入された輸入絹織物に対する高率の関税によって、アメリカの絹織物産業は保護され、本格的に成長の時代をむかえ、20世紀初めには世界最大の絹工業国となった。
現在、絹は世界の三十数カ国で生産されているが、量的には中国が多く、インド、ブラジル、ウズベキスタンなどが産地として知られている。 絹よりも強く安価で、手ざわりや品質がことなるナイロンやポリエステルなどの合成繊維の登場により、絹の生産や消費は、第2次世界大戦をはさんではなはだしく減少した。その後、高級織物としてみなおされて回復し、1980年代半ばには戦前の生産量をうわまわるまでに復活した。
生糸をとるため、クワを栽培しカイコを飼育してまゆを生産する養蚕の技術は、古く中国にはじまった。日本では明治以後、蚕品種や飼育技術が研究改良され、養蚕技術が大きく進歩した。 養蚕には、基本的に卵から孵化(ふか)した幼虫にはじめてクワをあたえる掃立(はきたて)から、幼虫が4回の脱皮をへて、蔟(まぶし)にいれてまゆをつくらせるまでの作業がある。この間約30~40日かかる。 ひとつのまゆからえられる絹の量は少なく、1kgの生糸をとるのに約5500匹のカイコが必要である。 完成した「まゆ」をあつめたのち、まず中にいるさなぎを熱処理で殺す。絹繊維は糸繰りとよばれる作業により、まゆからとられる。まゆをまず沸騰した湯で熱して、まゆの糸を固定している粘着性の物質を分解する。このあとまゆからとった数本の糸をひきそろえて1本の糸にし、糸車でまく。こうしてできた糸は生糸とよばれる。糸は切れることなくつながっており、綿や羊毛などのほかの天然繊維からつむいだ糸とはことなり、きわめて長い繊維からつくられている。 → 繊維
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