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1813~1901 イタリアの作曲家。イタリア・オペラの最高峰とされる作品をのこした。1813年、北イタリアのかつてのパルマ公領内の小村ロンコーレで生まれ、近くの町ブッセートで音楽教育をうける。32年、ミラノ音楽院をめざすが入学を拒否され、ミラノ在住の作曲家ラビーニャの個人指導をあおいだ。33年、ブッセートにもどって音楽愛好協会の指揮者に就任。25歳のとき、ふたたびミラノに出た。
1839年、オペラの第1作「オベルト」がスカラ座で初演され、まずまずの当たりをとる。しかし、次の喜歌劇「1日だけの王様」(1840年初演)は失敗におわり、最初の妻と2人の子供をなくした痛手も重なって、一時は作曲活動を断念しようとする。 1年余りのち、スカラ座の支配人にはげまされて「ナブッコ」(1842年)を書きあげ、爆発的な人気を博す。当時の人々はバビロンの捕囚となったユダヤ人の運命をえがいた内容に、オーストリアの北イタリア支配に抵抗する戦いの暗喩(あんゆ)をみいだしたのである。第3部第2場でうたわれるユダヤ人の合唱「いけ、わが思いよ、金色の翼にのって」は、のちにイタリア人の第二の国歌として愛唱されるまでになった。「ロンバルディ」(1843年)と「エルナニ」(1844年)も成功をおさめたが、「エルナニ」につづく10作のうち、今日でもしばしば上演されるのは「マクベス」(1847年:→ マクベス)と「ルイザ・ミラー」(1849年)の2作だけである。
ベルディは、「リゴレット」(1851年)、「イル・トロバトーレ」(1853年)、「ラ・トラビアータ(椿姫)」(1853年)をあいついで書き、新境地を開いた。ベルディの名を国際的にしたこの3作は、今日でもとくに人気が高い。「仮面舞踏会」(1859年)、「運命の力」(1862年)、「ドン・カルロス」(1867年)でベルディの名声はさらに高まった。これら中期の作品は、音楽による性格描写に格段の進歩をみせ、同時にオーケストラの役割を強化している。 ベルディのオペラの中で最高の人気をほこる「アイーダ」(1871年)は、スエズ運河の開通記念にエジプト総督の依頼で作曲され、カイロで初演された。1874年には、イタリアの文豪マンゾーニを追悼して「レクイエム」を作曲。オペラ以外の最高傑作となった。このジャンルの作品として、そのほかに劇的カンタータ「諸国民讃歌」(1862年)、弦楽四重奏曲・ホ短調(1873年)などがあげられる。 70代の高齢になってなお、ベルディはオペラの可能性を追求し、シェークスピアの悲劇「オセロー」を巧みに改編したボーイトによる台本をえて、傑作「オテロ」(1887年)に結実させた。最後のオペラとなった次作「ファルスタッフ」(1893年)も、シェークスピアにもとづくボーイトの台本がつかわれており、あらゆる喜歌劇の頂点をなす作品とみなされている。 ベルディのオペラは全体として、充実した内容、うつくしいメロディ、巧みな性格描写を特徴とする。型どおりの書法、古めかしい台本、技巧的な歌唱に固執していたイタリア・オペラを、音楽的にも劇的にも筋のとおった統一体に脱皮させた。彼のオペラは、現在、世界じゅうでもっとも頻繁に上演されるオペラにかぞえあげられる。 ベルディのイタリア語の綴(つづ)りは「イタリア国王ビットリオ・エマヌエレ」(Vittorio Emmanuele, Re d'Italia)の頭文字と一致するため、歌劇場における「ベルディばんざい!」(Viva VERDI!)の喝采(かっさい)は一時、イタリア独立と国家統一のひそかな合言葉にもなった。統一達成後の1861年から5年間、推挙されて国会議員をつとめている。1901年、ミラノで死去。
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