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オーストリア北東部にある同国の首都。オーストリア最大の都市で、連邦州のひとつを形成する。西に東アルプス山麓(さんろく)、東にドナウ河谷平野が広がり、ドナウ川が市中を貫流する。標高199mにあり、大陸性の気候で、年平均気温は10.6°C、年降水量は686mmである。オーストリアの経済、文化の中心地として、国の総人口の約5分の1が集中している。人口は165万1437人(2006年推計)。 中世以来、6世紀以上にわたってハプスブルク家の統治下にあり、神聖ローマ帝国の政治、経済、文化の中心地のひとつとしてさかえた。1867~1918年にはオーストリア・ハンガリー二重帝国の首都でもあった。第1次世界大戦後、オーストリアの領土が大幅に縮小したため、その重要性が低下した。第2次世界大戦では多大な損壊をうけたが、オーストリアの中立を保障する1955年の国家条約の調印後、ふたたび同国の商業および交通の中心としての重要性をとりもどした。
アルプスとカルパティア山脈の間をとおる低地にあるウィーンは、ヨーロッパの主要河川であるドナウ川の河港として、重要な位置を占めている。最初のケルト人集落がつくられたときから交通の要衝だった。今日、鉄道はウィーンからヨーロッパの大半の主要都市へ通じている。高速道路は北はドイツへとのび、1980年代には南へむかう道路が建設された。国際空港は南東部のシュウェハトにある。 ウィーンは工業、金融業、保険業の中心地で、オーストリアの工業総生産の約5分の1を占める。おもな工業は食料品、電気機械、化学、機械、金属、繊維、衣料、印刷、製紙など。磁器、宝石、ガラス製品、皮革製品、楽器といった手工芸も盛んである。 1950年代以降、政治・経済上の多くの国際会議が開催されるようになった。79年にドナウ川左岸に完成した国連シティには、IAEA(国際原子力機関)、UNIDO(国連工業開発機関)、OPEC(石油輸出国機構)などの国際機関がおかれている。21年から2年に1度開かれるウィーン見本市は、中央ヨーロッパの経済活動に重要な役割をはたしている。また、第2次世界大戦後のウィーンを特色づけるのは、外国人観光客の増大である。
中心部の旧市街は、かつては市壁でかこまれていた。市壁は1858年に撤去され、その跡にはリング大通りが建設され、道にそって重要な建物やモニュメント、公園がつくられた。特色ある建造物として、市庁舎(建造1872~83年)、ブルク劇場(同1874~88年)、ウィーン大学(同1873~83年)、議会(同1883年)、ウィーン国立歌劇場(同1861~69年)などがある。国立歌劇場は1945年に焼失し、55年に再建された。かつての宮殿ホーフブルクもここにあり、そのもっとも古い部分は13世紀にたてられている。ゴシック様式のシュテファン聖堂(13~15世紀に再建)は旧市街の中心部に位置し、高さ113mの尖塔(せんとう)をもち、ウィーンのどこからでもみることができる。 リング大通りの外側には第2の市壁ギュルテルがあったが、これも19世紀後半、郊外の拡大とともにとりこわされた。郊外の住宅地はウィーンに編入され、放射状の道路網が旧市街と郊外をむすんでいる。今日、工場は主として南部と東部にある。ドナウ川の南をはしるドナウ運河は1880年代に完成した。旧市街の南の境界は運河に接し、運河とドナウ川の間の地区も重要である。ドナウ川をこえた地区には新たに国際センターが建設されている。 ウィーンの発展でもっとも重要な時期が1870~90年である。急激に人口が増加した時期で、1918年には約240万人に達した。しかし第1次世界大戦後、多くの外国人がウィーンをはなれた。 多くの記念建造物は、ウィーンの文化的重要性を反映しており、さまざまな建築様式が調和している。ゴシック、ルネサンス、バロック、典型的なオーストリアのビーダーマイヤー様式の建物が、20世紀初頭のアパートや第2次世界大戦後の現代的アパートとともにならんでいる。 ウィーンは巨大な公園でも知られている。市民公園や大通り公園のように記念碑があるものや、多くの条約の調印がおこなわれたバロック様式の城のある公園もある。有名なプラーター公園はドナウ川と運河の中州にある。皇帝の夏の宮殿シェーンブルンは18世紀のロココ調のうつくしい公園で、現存する世界最古の動物園(1752年設立)がある。西部にはアルプスの山麓にあたるウィーンの森がある。
ウィーンは長い間、数多くのすぐれた文化施設と教育施設で知られてきた。18~20世紀初頭、ウィーンは世界の音楽の中心であり、高名な音楽家を生みだした。たとえば、ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、ブラームス、シューベルト、ブルックナー、マーラー、ベルクなどである。スッペはウィーン・オペレッタの初期の形式をつくり、ヨハン・シュトラウスは「こうもり」(1874)によってオペレッタをよりロマンチックなものにした。オペレッタの作曲家にはほかに、レハール、シュトルツ、オスカー・シュトラウス、カールマンなどがいる。 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、国立ウィーン・オペラ、音楽学校などは音楽の伝統を今につたえている。主要なホールには、ウィーン・フィルの本拠地である楽友協会ホール、テアター・アン・デア・ウィーン(1788)、フォルクス・オパーがある。ブルク劇場、テアター・アン・デア・ヨーゼフシュタットも有名である。 一方、ウィーンの美術は長く伝統的な土壌にはぐくまれてきたが、19世紀末にクリムトらがウィーン分離派(→ ゼツェッシオン)を結成すると急速に革新への道をあゆみだした。絵画ではクリムトにつづいてシーレも登場し、ワーグナー、ロースらは近代建築の端初を開いた。ホフマンはウィーン工房を設立してモダン・デザインの先駆けとなって、20世紀初めのウィーンは西欧でももっとも先端的な芸術の拠点のひとつとなった。第2次世界大戦後にはウィーン幻想派絵画の台頭をみている。 大学と研究機関の中で傑出しているのは多くの学部をもつウィーン大学(1365年創立)で、とりわけ医学部が世界的にも名高い。ほかにも、ウィーン工科大学(1815)、ウィーン経済大学(1898)、ウィーン美術アカデミー(1692)、ウィーン獣医科大学、ウィーン農業大学がある。美術館とギャラリーも数多いが、なかでもハプスブルク家伝来の美術品をあつめるウィーン美術史美術館、版画・素描の最大級のコレクションをほこるアルベルティーナ、ベルベデーレ宮殿のオーストリア絵画館、20世紀美術館、自然史博物館、工芸美術館はとくに知られている。
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