Windows Live® の検索結果
Windows Live® の検索結果 項目構成
競馬の元祖はイギリスである。1377年にプリンス・オブ・ウェールズ(のちのリチャード2世)とアランデル伯爵が自分の馬に騎乗してニューマーケット近くで競走したのが最初とつたえられている。マッチレースからしだいに参加者がふえて王侯貴族のスポーツとして盛んになり、当時者同士の賭けがともなった。やがてブックメーカー(賭けの胴元)の登場で一般の人たちがくわわり、ギャンブル色を濃くしてさかえた。 馬も改良された。バイアリー・ターク、ダーレー・アラビアン、ゴドルフィン・バーブの3頭を3大根幹種牡馬(しゅぼば)として、人間がつくった最高の芸術品といわれるサラブレッドが生産された。世界じゅうのサラブレッドの血統をたどれば、すべてがこの3頭に帰着する。「サラブレッド」という有名な本には「1馬種(サラブレッド)が世界を征服した」と誇示されている。 このイギリス流ともいわれる「近代競馬」は世界にひろまり、現在は「国際競馬統括機関連盟加盟国」として、ヨーロッパ、アフリカ、大洋州、アジア、南北アメリカの5地域、計70カ国で競馬がおこなわれている。
日本での最初の近代競馬は1862年(文久2)5月1、2日の2日間、横浜の在留外国人によって横浜新田堤塘(現在の横浜市中区山下町の加賀町警察署から元町までの地区辺り)でおこなわれた。在留外国人は「競馬コロフ(倶楽部)」を設立して治外法権的な競馬をつづけ、薩摩藩士がイギリス人の行列にきりこんだ「生麦事件」を契機として開催場所は根岸(現在、根岸競馬記念公苑のある所)へ移転。競馬の組織はその後分裂、解散して80年(明治13)に「日本レースクラブ」となった。日本人の馬主第1号は西郷従道。 一方、明治政府は軍備の近代化をすすめ、軍馬の改良手段として東京・九段の招魂社ほかで盛んに競馬をおこなった。このころの騎手はほとんどが陸軍の将校か馬術家で、軍人では日露戦争で旅順攻略の第3軍司令官となった乃木希典や、司馬遼太郎作の「坂の上の雲」で知られる秋山好古が参加した記録がある。 日清・日露戦争によって軍馬の劣勢を思い知らされたことから、軍馬改良が急務となった。外国人からは「日本の馬は猛獣だ」と酷評されてもいた。1906年に、これまで馬匹(ばひつ)改良の手段として競馬の必要性を熱心に説いていた加納久宣子爵と、陸軍からおくりこまれた安田伊佐衛門騎兵中尉によって「日本レースクラブ」を手本とする「東京競馬会」が設立され、新設の東京・池上競馬場で馬券を発売して競馬が開催された。桂太郎内閣は馬券の発売を黙許した。軍馬改良のためには必要社会悪とせざるをえなかったのであろう。11月24日からの4日間開催の池上競馬は盛況を呈した。 たちまち札幌、函館、新潟、松戸(中山の前身)、目黒、板橋、川崎、藤枝(福島の前身)、鳴尾、京都、小倉、宮崎の各地に馬主を主体とする競馬倶楽部が設立されて「倶楽部時代」が幕をあけ、近代競馬の第1歩をふみだした。
しかし、各競馬倶楽部が活況に酔いしれたのはわずか2年間足らずだった。1908年10月1日、新刑法の施行を機に、監督官庁にあたる馬政局は「馬券禁止」を各倶楽部に通達した。熱狂のあまり一家心中、盗難などが頻発し、賭博としての競馬を社会悪とするごうごうたる非難の声があがったためだ。 「東京朝日新聞」は、池上競馬の初日に「此の日、無類の好天気にてさながら春の如く、池上山上、松緑の間ちらほら紅葉を点綴して光景いわん方なく、競馬場はその山麓(さんろく)の平野にあり、中間の森などことごとく除き去られて眺望濶如(かつじょ)たり、西の方、富士の白雪は朝日に輝き出でて馬上の勇士を励ますものの如し」と、美文調で好意さえうかがえる記事を掲載したが、数日後の社説では、抜粋すると「現当局者の眼中には、人民は到底馬以上に映じおらざる如くに見ゆ……吾人は今にして当局が翻然として改むる所あり、競馬場における賭博の公開を厳禁せんことを望む」と、馬券禁止をはげしくうったえている。 馬券禁止は15年間におよんだ。この間、政府からの補助金によって競馬は細々と続行され、各競馬場は馬券にかわる商品券をだすなど、さまざまな苦肉の策がもちいられたが、競馬はいっこうに盛りあがらなかった。騎手たちは草競馬に出稼ぎにいったり、ほかの職業に転身する者もでた。1909年、ロシアのウラジオストクから招待され、総勢20数名、競走馬約50頭による初の海外遠征が実現され、安田伊佐衛門の持ち馬スイテンが5戦全勝するなど好成績をおさめはしたが、それも一過性の話題にすぎなかった。 1923年(大正12)3月、最初の競馬法が制定され、馬券が公認となり、ついに長いトンネルから脱出した。馬券公認にこぎつけるにあたっては、陸軍の強力な支援、競馬関係者の並々ならぬ努力があったが、特筆すべきは安田伊佐衛門の功績で、貴族院議員になって政界にはたらきかけたほか、あたかも岩をもとおす執念で手をつくした。安田はのちに「日本の競馬の父」といわれた。 法律によって馬券が発売されたことから、世間は「公認競馬」とよぶようになった。競馬倶楽部は息をふきかえし、売上高は飛躍的に増大した。売り上げがあがれば、ふつうの商売なら商品の値下げにつながるものだが、当時の日本は軍部の独走によって戦争への道をつきすすんでおり、当然ながら国家の財政はくるしかった。競馬からの国庫納付金はそれまで売上高の100分の1だったが、1929年(昭和4)に100分の4以内、31年に100分の6以内と、2度の競馬法改正によって逆にひきあげられていった。 この間、国家の総力を結集するためという趣旨で各分野に統制改善の手がのび、競馬界にも整理が要望された。1929年5月、11競馬倶楽部と、これらを統括していた帝国競馬協会をひとつの特殊法人日本競馬会とする競馬法が公布された。「倶楽部時代」の終了であり、「日本競馬会時代」の到来である。
日本競馬会(初代理事長松平頼寿)の実質的リード・マンの安田伊佐衛門はイギリスを範とし、ニューマーケット・ルールを尊重した。その最たるものは「日本ダービー」の創設である。1932年4月24日、競走名を「東京優駿大競走」とし、池上から移転した目黒競馬場で第1回をおこなった。反響は大きく、ファンを喜ばせたばかりでなく、競馬関係者からも歓迎の声があがり、なかでも競走馬生産者へあたえた刺激は大きかった。同年、安田の右腕といわれた佐藤繁信が、競馬事情視察のためヨーロッパに出張。2年間の予定を2カ月のばし、つぶさに調査して帰国、日本の競馬はイギリス流の方向へますます進むことになった。 イギリスに範をとった明け4歳馬(人間の数え年4歳に相当。2001年1月以降は、諸外国にならって3歳馬とよばれるようになった)によるクラシックレースが次々と誕生した。1938年11月23日にはイギリスのオークスに相当する「阪神優駿牝馬(ひんば)」(オークス)、同年12月11日にはセントレジャーに相当する「京都農林省賞典四歳呼馬(よびうま)」(菊花賞)、39年4月9日には1000ギニーに相当する「中山四歳牝馬特別」(桜花賞)、同年4月29日には2000ギニーに相当する「横浜農林省賞典四歳呼馬」(皐月賞)の第1回がおこなわれ、日本の4歳馬(3歳馬)5大クラシックレースが確立することになった。 近代競馬のかたちはととのえられつつあったが、競走馬資源(競走馬の数)はじゅうぶんとはいえなかった。先進国のような、サラブレッドによる平地競走だけでは番組(レースのプログラム)がなりたたず、アングロアラブ(以下アラブ)による平地競走、サラブレッドおよびアラブによる障害競走、トロッター種による繋駕速歩(けいがそくほ)競走などもおこなわれていた。 速歩は1968年の中京競馬を最後に廃止、アラブ競走は一時サラブレッドをしのぐほどの出走馬数でにぎわったこともあったが、94年(平成6)を最後にやはり廃止となっている。
|
© 2008 Microsoft
![]() ![]() |