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Windows Live® の検索結果 項目構成
プロローグ; ラジオの起源と放送の始まり; テレビの発明と放送の始まり; 放送産業の現況; 放送に対する規制; 番組制作; テレビ制作会社; 視聴時間; テレビに対する社会的批判; 世界の放送状況; 放送の未来
大気中の電磁波のうち電気通信につかわれるものを電波といい、電波によって音声と映像を不特定多数の視聴者につたえることを放送という。電波の使用には限界があり、世界の電波の利用法は国際電気通信条約および同条約付属無線通信規則できめられている。 無線通信規則では世界を3地域にわけて電波を分配している。そのため各国が放送に利用できる電波の変動範囲(周波数)の数はかぎられている。また無秩序に電波をつかうと他の電波と混信するので、無線局免許の必要が生じる。多くの国では政府が放送制度を運営管理している。税収から放送を援助して、国営または公共の放送制度をとっている国々もあるが、その場合も放送機関は政府から独立した権威をもつべきだとされている。民間の放送業者に免許をあたえるだけで、放送局は広告で利益をあげている国もあり、商業局と公共援助の局の混合制度をとっている国もある。 アメリカ合衆国も日本も混合制度をとっている。日本では受信料を徴収して経営するNHKと、広告収入に依存する民間放送が併存している。NHKはほとんど政府からの資金援助をうけていないが、その経営の最高決定機関である経営委員会の委員12名は衆参両院の同意をえて、総理大臣が任命する。 アメリカでは全世帯の98%がテレビをもち、ほぼ100%の世帯がラジオをもっている。日本のテレビ所有世帯は4350万世帯(1994)、1世帯に平均2台以上のテレビがあり、100%に近い所有率をしめす。ラジオは約1億6000万台、1世帯平均約3台もっていることになる。平均的なアメリカの家庭では毎日約7時間テレビをつけている。これに対し日本は約8時間20分で、1週間のうち1日以上ラジオをきく人は全人口の62%、このうち毎日きく人は15.5%である。 ネットワークテレビのプライムタイム(最優良時間)の視聴者は膨大な数にのぼり、アメリカ大統領のテレビ演説は6000万から8000万のアメリカ人がみている。放送の広告収入はアメリカ国内だけで年に240億ドル以上にのぼるが、日本でも放送の広告費はふえつづけ、1994年にはラジオ広告費は2029億円、テレビ広告費は1兆6435億円に達した。
ラジオ放送は有線の電気通信から発展した。この技術はアメリカのサミュエル・モースの電信の発明(1844)とベルの電話の発明(1876)を基礎にしている。1870年代にイギリスの物理学者マクスウェルが電磁波の放射の理論を展開し、88年にドイツの物理学者ヘルツは研究室でそれを証明した。 これらの研究に刺激され成長したイタリアのマルコーニは、1894年にモールス信号を約2km先までおくり、無線通信の基本技術を発明したが、イタリアの郵便通信省は実用的でないとしてとりあげなかった。イギリスにわたったマルコーニは投資家の援助をうけて97年に会社を設立し、無線電信の限界度を拡大する実験を、海上の船とおこなった。1906年のクリスマスイブに、電信信号にまじって人間の声をきいた世界じゅうの通信手はびっくりした。 ラジオを大衆聴取者への放送につかう最初の発案は、1916年にアメリカ、マルコーニ社のデービッド・サーノフによるもので、講演や音楽会などを家庭できかせようという案だったが、上役は懐疑的で棚上げになった。 ウェスティングハウス・エレクトリックの副社長ハリー・デービスは、次の大統領選挙の結果発表の時までに、強力な送信機をつくるよう技術者フランク・コンラッドにもとめた。1920年11月2日、ペンシルベニア州ピッツバーグのKDKA局は、ハーディングが大統領に当選したことを放送した。これが世界最初の正式なラジオ放送とされている。 手軽につくられる鉱石ラジオが急速に普及するいっぽう、アメリカの発明家リー・デ・フォレストによる真空管の発明が1906年にあり、ラジオの技術的基礎となった。22年にはニューヨークのWEAF(現WNBC)で、最初の商業ラジオの広告が放送され、26年には約500万世帯がラジオをもつにいたった。ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)は、アメリカ電話電信会社(AT&T)とむすんで、最初の商業ラジオ・ネットワークを設立、20年代にはラジオは新しいマス・メディア産業となった。 初期のラジオは、同じ周波数で競合するラジオ局の電波障害に直面した。混信をなくすため1927年のラジオ法で連邦ラジオ委員会(FRC)がつくられ、これを管理することになった。34年の通信法では、FRCにかわって連邦通信委員会(FCC)が設立され、電話、電信、無線通信まで監督することになった。ヨーロッパ諸国でも20年代前半にラジオ放送がはじまった。 日本では1922年(大正11)に逓信(ていしん)省通信局が無線通信法にもとづいて、ラジオを「放送用私設電話」と規定し、25年3月に社団法人東京放送局を認可、ラジオ放送がはじまった。翌26年8月、東京、大阪、名古屋の3放送局が合併、社団法人日本放送協会(NHK)が設立された。戦後、50年に無線通信法が廃止され、民間のラジオ放送局ができるまで、NHKが日本で唯一の放送事業者であった。
テレビのアイデアは1880年代の空想科学読み物にも登場する。84年にドイツの発明家P.ニプコーは、回転する円盤をつかって有線で画像を電送する技術を開発したが、実用化しなかった。1927年、P.T.ファーンスワースが精巧な光電管を開発し、以来、電子的に体系づけられたテレビ放送の基本原理が利用できるようになった。 日本でも1926年、高柳健次郎がニプコー円板と光電管をつかって、ブラウン管をもちいたテレビを成功させた。これは当時の世界でもっとも高い水準にあった。 1928年に最初のテレビドラマ「女王の使者」がニューヨークの実験用設備で放送された。30年代、RCAの社長になったサーノフは物理学者ウラジーミル・ツウォリキンにテレビカメラ改良の研究をつづけさせ、RCAはエンパイア・ステート・ビルから実験放送をおこなった。テレビは39年の世界博覧会に劇的なデビューをした。 最初のテレビ受像機の画像は白黒で、画面も13cmと小さく、数百ドルもした。1940年代初めはテレビの夜明けの時代だったが、すでに第2次世界大戦がはじまっており、産業界の関心は戦争にむいていた。 戦後、アメリカのテレビ放送は急速にのびた。そのためVHF帯(超短波、チャンネル2~13)でのテレビ放送用周波数が少なくなり、1952年にはUHF帯(極超短波、チャンネル14~83)をテレビ送信に開放した。55年にはアメリカ全世帯の67%がテレビをもち、60年には87%までになった。 日本のテレビ放送は第2次世界大戦後にはじまった。1950年従来の無線通信法が廃止され、電波三法(電波法、放送法、電波監理委員会設置法)が制定された。電波監理委員会(2年2カ月で消滅)が新たにテレビ局に免許をあたえ、53年2月NHK東京テレビ局、同年8月日本テレビ放送網が開局、本格的テレビ放送がスタートした。NHK開局時の受像機台数は866台、当時の受像機は23万~29万円(大卒初任給が約1万円)であった。しかし人々の関心は大きく、街頭テレビに大群衆がおしよせた。59年の皇太子ご成婚は、テレビの普及に拍車をかけ、59年末のNHK受信契約数は346万にふえ、民間テレビ局も38局となった。60年にカラー放送がはじまり、61~62年に全日放送体制が各局にできあがり、テレビ普及台数は62年には1000万台をこえ、普及率は48.5%となった。68年には大量のUHF局(43局)に免許がおり、69年末のテレビ普及率は90%をこえた。
アメリカ放送産業の年間収入は、1980年代後半には250億ドル近くに達した。直接この産業に雇用される人は23万をこえ、さらに広告や独立番組制作などの関連業種にこれに匹敵する人数がやとわれている。 日本の放送関連の収入はNHKが約5500億円(1992)、民放のラジオ約2500億円、同テレビ1兆6500億円(1994)で、合計すると2兆4500億円になり、アメリカに匹敵する。この産業の従事員は、NHK約1万5000人、民放ラジオ局とテレビ局で2万9000人、計4万4000人で、この数をうわまわる雇用者が、関連の広告業、番組制作会社などではたらいている。
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