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項目構成
プロローグ; ラジオの起源と放送の始まり; テレビの発明と放送の始まり; 放送産業の現況; 放送に対する規制; 番組制作; テレビ制作会社; 視聴時間; テレビに対する社会的批判; 世界の放送状況; 放送の未来
アメリカには、公職選挙の候補者に局の施設をつかわせた場合、要求されれば対立候補にも同等の機会をあたえなければならないとする同等時間規定(1934)がある。また政治広告の時間と使用料は候補者の間で同等でなければならない。ただし取材の自由を制限しないため、真正なニュース放送、定時の真正なインタビュー番組などは除外されると規定している。 日本では公職選挙法により選挙活動に放送を使用することが禁止されているので、同等時間規定はない。政見放送は別である。
FCCに対しては、委員に業界出身者が多く、企業の利益を優先させているという批判や、ケーブルテレビ産業の成長がおさえられているという批判もある。1980年代のアメリカでは、規制緩和の傾向にあり、一方で市場の競争による利益は番組多様化の動機にはならないとして規制緩和反対の意見もあったが、政府は80年代の半ばまでに規制のいくつかを解除した。FCCは一社で所有できる放送局数をふやし、テレビコマーシャルは1時間につき16分という制限を解除した。 日本の電波法と放送法では、放送局の免許の規制条件を次のようにさだめている。(1)種目別の普及の目標として、テレビ局は教育番組を10%以上、教養番組を20%以上放送しなければならない。(2)マス・メディアの集中排除について、同じ者による複数の放送局の支配と、同じ者によるマス・メディア3事業(テレビ、ラジオ、新聞)の支配を原則として禁止する。(3)民放の地域立脚、である。 旧郵政省は放送局の免許の有効期間を3年から5年にし、通信衛星をつかった放送をみとめるなど、少しずつ規制緩和の方向にうごいている。 日本の放送法にはテレビ局のコマーシャル量を規制する条文はないが、日本民間放送連盟(民放連)の放送基準の第18章で、ラジオ、テレビの広告時間基準をもうけている。テレビコマーシャル量は週間総放送時間の18%以内、プライムタイムでは放送番組ごと10%以内の時間にすることになっている。
アメリカではふつう、放送前にだされる予想視聴率で広告時間が売買される。そのため、どんな番組が大衆の人気をとるか予想する技量によって放送事業者の収入がきまってくる。 日本でも近年では、スポット広告の価格は視聴率に直接比例してきめられる。番組の視聴率が極端に下落するとスポンサーは提供を中止することもある。主要都市地域では毎朝前日の視聴率が調査会社からおくられ、局の担当者は大衆の関心の高いものに注目し、それをとりいれて番組をつくるので、各放送局の番組は似たものが多くなる。
研究者はアメリカの放送番組制作を4段階にわけている。第1段階は1920年代の商業ラジオの登場である。前例も経験もないので、放送事業家はどんな番組を人々がききたいのかわからなかった。初期のラジオ放送は品よく、かたくるしいもので、クラシック音楽やセミ・クラシック音楽、歴史ドラマなどを中心に放送した。コマーシャルは簡潔で控えめであった。 日本では終戦直後、GHQや政府に、民間のラジオは必要ないという意見があったが、結局1950年、NHKの民主的改組と民放の設立をもりこんだ電波三法が制定された。民放ラジオは初年度から好調な滑り出しをみせ、早々に黒字になった局が多かった。初期の民放ラジオは、NHKに対抗したオールラウンド編成で、ドラマ、クイズ、演芸、歌謡曲など大衆的娯楽番組をならべていた。
アメリカのラジオの隆盛は1928年にはじまった。番組制作の第2段階はラジオの黄金時代で、アクション冒険物と芸人による寄席演芸風のコメディがラジオにあふれた。 1930年にはクロスレー聴取率会社が設立され、聴取率競争が進行しつつあった。大恐慌による経済停滞から第2次世界大戦へと社会情勢が緊迫化していく中、ラジオはいぜん好調で、人々は夜は家庭でラジオの娯楽番組や冒険物語にくつろぎ、戦争と恐慌の時代の緊張から解放された。 日本では1950年の朝鮮戦争による好況とスーパー受信機の普及により、ラジオの成長がつづいた。庶民感覚の娯楽番組、地元密着の情報番組、在野ジャーナリズムにたったニュース報道番組など、民放ラジオは聴取者に好感をもってうけいれられた。一方、NHKもこれに対抗して「とんち教室」「20の扉」「陽気な喫茶店」「夢声百話」「社会の窓」など強力な娯楽情報番組をそろえ、大衆路線をひろげた。 その中から「君の名は」の大ヒットが生まれた。民放とNHKとの競争は、結果的にはラジオをきく習慣を日常化した。1953年5月にはじまった「聴取率調査」では、高聴取率番組はNHKに多かったが、54~55年には、全日聴取率でラジオ東京がNHKをぬくまでになった。 朝鮮戦争がおわった1953年がテレビ放送の始まりだった。53年のラジオ広告費45億円、テレビ1億円、ラジオはテレビの出現を前にして全盛期であった。
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