Windows Live® の検索結果
Windows Live® の検索結果 項目構成
1918~91年までバルカン半島に位置した国で、6つの共和国、すなわちボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、マケドニア、モンテネグロ、セルビア、スロベニアからなっていた。正式な国名はユーゴスラビア社会主義連邦共和国であった。 バルカン半島にすむスラブ人を南スラブ人とよぶが、ユーゴスラビアを形成したのはその中のセルビア人、クロアチア人、スロベニア人、マケドニア人である(同じ南スラブ人に属するブルガリア人は別に国をつくった)。彼らは歴史的にはばらばらに生活し、トルコ、オーストリア、ハンガリー、ブルガリアのような近隣の強国に支配されていた。 第1次世界大戦前、セルビアとモンテネグロは独立していたが、ボスニアとヘルツェゴビナはオーストリア・ハンガリー二重帝国の主権下におかれており、クロアチアとスロベニアははじめはハンガリー、のちにはオーストリアの半自治的な属国、クロアチアの南海岸部からモンテネグロ海岸線にいたるダルマチアはオーストリア領となっていた。しかしこのような分裂にもかかわらず、19世紀の前半以降には、政治的統合をもとめる運動が成長していった。
1914年6月28日のセルビア人民族主義者によるオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントの暗殺によって、オーストリア・ハンガリー二重帝国はセルビアに宣戦を布告し、第1次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)した。大戦中、セルビアは同盟国軍に占領されたが、亡命南スラブ人によって国家統合委員会がつくられたことによって、南スラブ人国家創建の道がひらかれた。17年、同委員会と亡命セルビア政府の代表はコルフ島(ギリシャ名はケルキラ)にあつまって宣言を発表(コルフ宣言)、セルビアのカラジョルジェビッチ王朝のもとでの立憲君主制をとなえた。 オーストリア・ハンガリー二重帝国の崩壊にともない、1918年10月、旧帝国下の南スラブ人の代表はザグレブにあつまってセルビアとの統一を決議、翌月にはモンテネグロも同様の決議をおこなった。こうして同年12月、病気になっていたカラジョルジェビッチ王朝のペータル1世の皇太子アレクサンダルが、父王の回復まで新国家の摂政となり、国名は「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」と宣言された。 1920年11月に憲法制定議会の選挙がおこなわれ、翌年6月の議会では連邦制をのぞむクロアチアの意に反して、きわめて中央集権的なセルビアよりの憲法草案が採択された。その直後の21年8月、ペータルが死去し、アレクサンダル1世が即位した。
セルビア中心の政治体制は当初から民族間の対立をはらみ、1928年6月の国会では、モンテネグロ議員がクロアチア農民党指導者ラディッチに発砲するという事件にまで発展し、クロアチア議員は議会からひきあげた。一触即発の状況のなか、アレクサンダルは29年に憲法を停止して議会を解散させ、国王独裁政をしいて、国名をユーゴスラビア王国とあらためた。 国王のこの措置には国民の統合をはかろうとする意図がこめられていたが、民衆の不満は高まった。アレクサンダルは、1931年9月に独裁政を廃止する新憲法を発布したが、議会政治に対してさまざまな制約をくわえ、事実上国王の独裁はつづいた。そのため、34年10月、訪問中のフランスで、クロアチアの分離主義グループと関係のあるマケドニア人のテロリストに暗殺された。ついで、従弟のパブレが摂政となり立憲政を回復したが、政府はしだいにクロアチアへの譲歩を余儀なくされ、39年にはクロアチアを自治州としてみとめた。 対外的にはアレクサンダルは近隣諸国との友好関係の強化をめざした。1920~21年にチェコスロバキア、ルーマニア、ユーゴスラビア間で個別的に結成された小協商は、本来ハプスブルク勢力の復活をふせぐ意図をもっており、34年にはギリシャ、ルーマニア、トルコともバルカン協商をむすんでいる。しかしアレクサンダルの死後、ユーゴスラビアはナチス・ドイツに接近していった。
第2次世界大戦勃発直後、ユーゴスラビアは中立を宣言したが、ヒトラーの圧力の前に1941年3月に日独伊三国同盟に加盟した。しかし、これに対する民衆の反対の声が強まり、反ドイツ派はクーデタをおこして新政府を樹立、中立を宣言したが、10日後にドイツ軍はユーゴスラビアへの攻撃を開始した。国王ペータルと政府は亡命し、ユーゴスラビア軍は降伏、枢軸国軍(イタリア、ドイツ、ハンガリー、ブルガリア)が国土を分割占領した。クロアチアは独立国となってナチスの傀儡(かいらい)政権が誕生した。 分割占領ののち2年以上にわたって国内の政治的・軍事的混乱はつづいた。旧王国軍の大佐でセルビア民族主義者のミハイロビッチは抵抗組織チェトニクを指揮して、クロアチアの傀儡政権および占領軍とたたかい、いっぽうクロアチアのファシスト集団ウスタシャはセルビア人撲滅の戦いをくりひろげた。また、クロアチア人共産主義者チトーのひきいるパルチザンは侵略軍とクロアチア傀儡政権に対してたたかった。しかしロンドンに亡命していたユーゴスラビア政府がミハイロビッチを抵抗軍の指揮官としてみとめたために、抵抗勢力間に混乱が生じることになった。
|
© 2009 Microsoft
![]() ![]() |