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1860年の大統領選挙は奴隷制をめぐる選挙となった。民主党は分裂し、南部派はジョン・ブリキンリッジを、北部派はダグラスを大統領候補に指名。南北境界州の支持で結成された立憲統一党はジョン・ベルを候補とし、共和党はリンカンを指名した。結果的に民主党の分裂が共和党を勝利にみちびいた。リンカンが当選すると、同年12月、サウスカロライナ州は連邦脱退を決議、ミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサスがつづいた。これら7州は61年2月、アメリカ南部連合を樹立、ジェファソン・デービスを大統領に任命した。 1861年4月、サウスカロライナ州チャールストンの連邦軍サムター要塞(ようさい)を南部連合軍が砲撃、南北戦争がはじまった。リンカン大統領はただちに志願兵を募集したが、それを機に、バージニア、ノースカロライナ、アーカンソー、テネシーの4州も連邦を離脱し、南部連合にくわわった。 1861年の段階では、北部、南部とも戦争の準備はととのっていなかった。約2200万人の人口を擁する北部に対し、南部は人口900万人、そのうち400万人近くは黒人奴隷だった。両軍とも当初は志願兵でたたかっていたが、戦局がすすむにつれ徴兵にたよらざるをえなくなった。終戦までに南部では90万人の白人男性が、北部では200万人の男性が従軍した。金融や工業・食料生産力、資源、輸送能力でも北部は南部より遥かにまさり、南部はあらゆる物資の不足にくるしむことになる。 人的・物的には優位にたっていた北部だったが、伝統のある南軍(南部連合軍)はリー将軍のような有能な軍人にめぐまれ、北軍(連邦軍)がグラント将軍やシャーマン将軍をみいだすまでには、試行錯誤をへなければならなかった。 南部攻略作戦として北部世論や政治家に支持されたのは、南部連合国の首都、バージニア州リッチモンドへ陸路をいっきに進軍し、息の根をとめることだった。しかし、リンカンの軍事顧問は「アナコンダ作戦」の実行をすすめた。これは海上封鎖で南部を包囲、ヨーロッパからの物資補給路をたち、つづいてミシシッピ川を確保、さらに南部中心部へ侵入して南部を分断するというものだった。
1861年、マクダウェル将軍ひきいる兵力3万の北軍はポトマック川をわたり、バージニアに侵攻した。いっぽう南軍は、ボーリガード将軍ひきいる2万2000が首都ワシントンの約48km南西にある鉄道拠点マナサスに結集。同年7月21日、ブル・ラン川の近くで両軍ははげしくたたかったが、援軍をえた南軍に北軍は総崩れとなった(第1次ブル・ランの戦)。この戦いで屈辱的な敗北を喫し、短期決戦の困難をさとった北部は、ただちに軍を拡充強化。これに対し、自らの力を過信した南部は、長期戦の適切な準備をおこたることになる。 第1次ブル・ランの戦ののち、リンカンはマクレラン将軍を東部戦線のポトマック方面軍司令官に任命した。
1862年の東部戦線での最大の会戦は、マクレランのひきいるポトマック軍と、南軍のジョンストン、リー、ジャクソン3将軍による、南部連合国の首都リッチモンドにおける攻防戦だった。同年春、マクレランは陸路を正面から進撃する戦術をさけ、首都南東から迂回して進軍した。5月31日、両軍は戦闘を開始、南軍が撃退され、負傷したジョンストンにかわってリー将軍が北バージニア軍司令官となる(フェア・オークスの戦)。マクレランが南軍を過大評価して追撃をためらう間、ジャクソン将軍の軍がリーの部隊と合流し、北軍に攻撃をくわえた(7日会戦、6月25日~7月1日)。この戦闘で両軍とも致命的損害はうけなかったが、マクレランは退却した。 1862年8月29~30日、第2次ブル・ランの戦で北軍はふたたび惨敗を喫し、勝利したリー将軍は9月、5万の兵をひきいてメリーランド州に侵入する。リーがこのような大胆な行動にでたのは、北部人の戦意喪失をねらっただけではなく、連邦の領土で南軍が勝利すればヨーロッパ諸国が南部連合の独立を承認するだろう、と期待したからだった。9月17日、マクレランの部隊がリー軍をむかえうったアンティータムの戦は激戦となり、死傷者は北軍1万2500(うち戦死は2108)、南軍1万500(戦死は少なくとも2700)におよんだ。劣勢となったリー軍はバージニアに退却したが、またもマクレランは追撃せず、リンカンの怒りを買って司令官の地位を解任された。
北軍は、東部戦線での戦況は手詰まり状態だったが、西部戦線ではかなりの戦果をおさめていた。西部戦線の目的はミシシッピ川を制圧し、南部を分断して補給をたつことにあった。1862年初め、北軍のグラント将軍はテネシー州のヘンリー要塞とドネルソン要塞をおとし、同年4月、同州シャイロでも南軍をうちやぶった。5月に南部の重要な鉄道の拠点であるミシシッピ州コリンスを陥落させ、さらに6月にはテネシー州ほぼ全域を制圧、メンフィスまでのミシシッピ川の支配権をえた。 北軍は陸上攻撃とともに、ミシシッピ川をさかのぼって水上攻撃の戦術もとる。北部海軍のファラガット提督ひきいる小艦隊は、ミシシッピ川河口の南部最大の都市で主要貿易港でもあるニューオーリンズを陥落させ、支配下においた。 東部戦線では、ポトマック方面軍の新指揮官フッカー将軍が、戦況を打破すべく1863年5月、バージニア州に進軍。リーの南軍に攻撃をしかけるが失敗した。フッカー軍のすきをつき、リーはジャクソンとともに攻撃、勝利をおさめた。このチャンセラーズビルの戦(5月2~4日)では、北軍、南軍とも大きな犠牲がでた。リーは兵力の2割とジャクソン将軍をうしなった。 東部戦線の勝利に力をえたリー将軍は、北部に軍をすすめる。これは、西部戦線で包囲された南部連合の戦況を打開する作戦だった。さらに将軍は、厭戦(えんせん)気分が高まりつつある北部が、これで和平交渉の開始に合意することをねがっていた。1863年7月1日、南軍はペンシルベニア州南部のゲティスバーグに侵入、有利な防衛態勢の北軍に、リーは各方面から攻撃をしかけるが成功しなかった。同月3日、北軍の中央を突破する正面攻撃にでるが、一斉射撃をうけ大きな損害をこうむった。将軍は後退を命じたものの、ポトマック川の氾濫で退路ははばまれた。しかし北軍が追撃をためらったために、なんとかバージニアにたどりついたが、兵の約3分の1が犠牲になり、このゲティスバーグ会戦は南北戦争の転換点となった。 西部戦線では、南軍最後の拠点としてテネシー州のビックスバーグとチャタヌーガがのこっていたが、北軍はゲティスバーグでの勝利の翌日、まずビックスバーグをグラント将軍の攻撃で陥落させ、11月にはチャタヌーガの戦に勝利、西部戦線は完全に北軍が掌握した。これで南部連合の内陸部アラバマ州、ジョージア州に進軍する道がひらかれ、1863年末までに戦局は完全に北部優位に転じた。
グラント将軍は1864年3月、アメリカ陸軍総司令官に任命された。グラントは、3方向からの南部連合追撃作戦をとった。(1)グラントとミードがポトマック方面軍の指揮をとってバージニアのリーとたたかい、リッチモンドをおとす。(2)シャーマン将軍の部隊は、チャタヌーガからジョージア州に侵攻しアトランタを攻略する。(3)シェリダン将軍は南軍の補給基地であるシェナンドア川流域を破壊、補給をたつ。 1864年3月、グラント将軍は兵力11万5000の北軍をひきいてリッチモンドにむかった。バージニア州のウィルダーネスの森で、6万2000人のリー軍と北軍の戦闘が開始され、両軍に多くの犠牲者がでたが勝敗はつかなかった(5月5~6日)。グラントはひきさがることなく、両軍の死闘は各地でつづいた。6月、グラントは鉄道の要所であるバージニア州ピーターズバーグに進軍。包囲戦を開始してリッチモンドへの補給路をたとうとしたが、南軍は9カ月ふみこたえる。 いっぽうシャーマン将軍は、1864年5月、9万の北軍とともにジョージア州アトランタへ進軍を開始していた。4カ月にわたる攻防戦のすえ、南軍は9月1日、ついにアトランタを放棄し退却。また同じころ、シェナンドア川流域のシェリダン将軍も南軍をうちやぶり、南軍の補給基地を支配下においた。北部はこの勝利の報にわき、リンカンは同年11月の大統領選挙で再選された。11月15日、炎につつまれたアトランタをあとにしたシャーマン将軍は沿岸部へ進撃(海への進軍)、徹底的な破壊作戦をおこなった。クリスマス前にサバナを陥落させると、南北カロライナ州に北上した。 1865年4月、ついにリッチモンドは北軍の手におちた。退却した南軍は北軍に包囲され、4月9日、リー将軍はバージニア州南西部にあるアポマトックスの郡役所でグラント将軍に降伏、ここに4年にわたった内戦は事実上幕をとじた。
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