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南北戦争開戦当時、北軍の海軍はかろうじて存在するだけだった。また当時の軍艦は公海上での戦闘用に設計されており、港湾封鎖には適さなかったため、南部の海上封鎖には新型軍艦を建造しなければならなかった。これに対し南軍は、封鎖破りの新兵器メリマック号(別名バージニア号)を登場させた。これは木造フリゲート艦に鉄の装甲板をかぶせたものだった。メリマック号との交戦によって甲鉄艦の威力が証明されると、北部も同様の軍艦の建造をすすめる。北軍にとって海軍の役割は大きかった。テネシー川やミシシッピ川の制圧、ニューオーリンズ占領のため海軍の支援は不可欠だった。いっぽう、南部の海軍力はじゅうぶんではなかったが、大西洋各海域で北部の商船を攻撃した。
南部連合は、独立を諸外国、なかでもイギリスとフランスに承認させるために外交戦略を展開した。ヨーロッパの繊維産業は南部の綿花に依存していたため、海上封鎖で綿花輸出が停止すればヨーロッパ諸国は戦争に干渉する、と確信していた。しかし、この綿花外交はいくつかの点で破綻した。イギリスは開戦前に綿花を大量に備蓄して供給過剰になっており、また北部はイギリスから武器や工業製品を購入、イギリスも小麦粉を輸入し、ともに利益をあげていた。さらに1863年、奴隷解放宣言がだされると、諸外国の世論は連邦支持にかたむいた。同年以降、戦局が北部に好転したことも、南部連合が諸外国の支持をうしなう要因となった。
南北戦争開始当初、リンカン大統領と連邦議会は、戦争目的はあくまでも連邦の統一であることを明言していた。南北境界奴隷州の忠誠を維持するため、リンカンは奴隷制の問題を注意深くあつかっていたが、この問題をさけてとおることはできなかった。1862年9月、大統領は奴隷解放予備宣言をだし、翌63年1月1日、奴隷解放宣言を発布。この宣言は、南部連合にくわわらなかった境界奴隷州や、すでに連邦占領下にあった地域の奴隷には適用されなかったが(アメリカ全土での奴隷制廃止は、65年12月の憲法修正第13条による)、南北戦争に人道的大義をあたえ、戦争の性格をかえていくことになった。戦争では19万人近い黒人が陸海の戦闘に参加、その多くが奴隷州出身だった。 南北戦争はアメリカ史上もっとも犠牲の大きい戦争となった。終戦時の戦死者は約62万人(当時の総人口は約3500万人)、負傷者はそれ以上にのぼった。死者の80%は病死だった。戦場となった南部は壊滅的な損害をうけ、リッチモンド、チャールストン、アトランタなどの都市は荒廃し、北軍の通過地域では道路は寸断され、農場も破壊されていた。南部は奴隷制解体、南部連合公債や通貨の支払い、換金禁止、綿花の没収など、戦争によって約40億ドル相当の財産をうしなった。 戦争は連邦政府、とくに大統領の権限を拡大した。また、戦争前には連邦議会内の南部議員の反対で実施できなかったいくつもの政策が実現された。ホームステッド法、大陸横断鉄道など国内交通網の開発への政府助成、最高税率のモリル関税法などがその例である。さらに、北部の工業の機械化と資本の蓄積をうながし、軍需のための加工食品、軍服・軍靴などの大量生産がおこなわれ、こうした産業は戦後、民間向けに飛躍的に成長した。1865年までにアメリカは工業国として発展の道をあゆみはじめる。 南北戦争は約400万人の黒人に自由をもたらしたが、300年以上にもわたって奴隷制を維持してきた南部の体制や価値観は、戦争終結とともになくなったわけではなかった。そのため、人種間にはさまざまな緊張や問題が生じ、20世紀にはいってからも尾をひくことになる。
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