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  • ジスカール・デスタン,V. - MSN エンカルタ 百科事典 ...

    1926~ フランスの第5共和政第3代大統領。在任1974~81年。名家の出身で、ドイツのコブレンツに生まれる。理工科学校、国立行政学院をへて会計検査院に勤務し、フォール内閣の官房副長官に就任した。1956年に祖父の地盤をうけついで国民議会議員となり、62 ...

  • シュレーダー首相とシラク大統領は欧州憲法を支持

    ... シラク大統領およびリヨネル・ジョスパン首相との首脳会談を終えて、憲法を制定する政治的枠組みが定められた。ドイツは将来、euの根本的な改革案を策定するeu憲法制定会議の議長候補者が話題になった場合は、ヴァレリー・ジスカール・デスタン元大統領 ...

  • ポール・ボキューズ - Wikipedia

    スープエリゼとか、スープ・ヴェ・ジェ・ウ(v.g.e.は ヴァレリー・ジスカール・デスタン 大統領の頭文字)とも呼ばれているが、1975年にフランスの料理人として初めて「レジオン・ド・ヌール勲章シュバリエ」を受勲したポール・ボキューズが、その際の ...

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ジスカール・デスタン,V.

ジスカール・デスタン Valéry Giscard d'Estaing
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

1926~ フランスの第5共和政第3代大統領。在任1974~81年。名家の出身で、ドイツのコブレンツに生まれる。理工科学校、国立行政学院をへて会計検査院に勤務し、フォール内閣の官房副長官に就任した。1956年に祖父の地盤をうけついで国民議会議員となり、62~66年にポンピドゥー内閣の財務相をつとめた。66年にインフレ対策に失敗して財務相を辞任、翌年、独立共和派連合を結成した。このころから「中道・自由・ヨーロッパ」を標語にして、反ド・ゴールの立場を鮮明にした。

II

大統領に

ド・ゴールの大統領辞任後、1969年の大統領選挙ではポンピドゥーを支持し、ポンピドゥー当選後、シャバン・デルマス内閣、ついでメスメル内閣で財務相となった。74年4月、ポンピドゥーの急死にともなう大統領選挙に立候補、第1回投票で有力な対立候補だったド・ゴール派のシャバン・デルマスが脱落し、第2回投票ではシラクなど若手のド・ゴール派の支持をえて、左翼連合のミッテランを僅差(きんさ)でおさえ当選した。

老齢だったシャバン・デルマスとの対比を強調するために、ジスカール・デスタンは選挙権年齢を2歳ひきさげて18歳とし、また妊娠中絶の解禁などを実施した。また、政治的・軍事的威信のために経済を圧迫しがちだったド・ゴールの政治姿勢とは対照的に、経済合理性と国際協調、ことに対米協調を重視したので、国際的な期待も高まった。

しかし、就任直前の1973年12月におきた石油ショックによる景気の低迷がつづき、任期中に財政の専門家としての実力を発揮することはできなかった。81年の大統領選挙でミッテランにやぶれたあとも野党の有力指導者の地位をたもったが、96年に政界引退を表明した。

III

EU諮問会議の議長に

2002年1月にユーロの一般流通にまでいたったEUは、東欧への拡大をすすめる一方、将来像の構築が必要とされるようになった。01年12月に開かれたEUのヨーロッパ理事会(首脳会議)は、EUの将来像を協議する諮問会議の設定をきめ、その議長にジスカール・デスタンを任命した。諮問会議は各国政府から一定の距離をおき、各国議会代表の意見も反映できる場となった。

諮問会議では、統一憲法の制定や大統領制の導入などをふくむヨーロッパ連邦構想が検討課題となったが、連邦制を主張するドイツやベルギーと、主権の放棄をみとめないとするイギリスや北欧諸国の意見の違いは大きかった。そのため、草案作成があやぶまれた時期もあったが、2003年6月に草案をしあげ、04年6月の首脳会議で採択された。

ジスカール・デスタンは、草案をアメリカの憲法草案になぞらえ、ヨーロッパ合衆国へとつながるものにする意向をもっていたとされる。その意向は、EUの法人化、大統領や外相の創設などにしめされ、さらなる統合へむけた重要な一歩をきずくことになった。

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