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項目構成
各市町村におかれている公共の援助機関が、保健および医療業務を担当し、公立病院の管理、看護サービスや診療所の統括などをおこなっている。社会保障は、1944年の法律にもとづき、雇用契約にしたがってすべての労働者に適用されている。この制度のおかげで、公衆衛生が改善され、市民は経済的に安定した。
ベルギーは、ブリュッセルに本部をおくNATO(北大西洋条約機構)の設立メンバーである。軍隊は志願制で、訓練方法および装備は1948年の協定にもとづき、オランダと同等である。軍隊は陸、海、空軍からなり、総兵力は90年代初めで8万人をこえたが、近年は大幅な軍備縮小がすすめられ、2004年の兵力は3万6900人。
ベルギーの名称は、古代ケルト人の一族、ベルガエに由来する。ローマ時代にベルギーはガリアの一部だった。中世ではフランク王国、ついでロレーヌ公国、ブルゴーニュ公国の領土にくみいれられた。
ブルゴーニュ家の領土は、1474年の婚姻によってハプスブルク家の支配下に入った。マクシミリアン1世の孫であるカールは、ネーデルラント(現在のベルギーをふくむ)を相続後、スペイン王位につき、その後神聖ローマ帝国皇帝カール5世となり、1549年にネーデルラントを正式にスペイン領土にくわえた。 後継者であるスペインのフェリペ2世は、プロテスタントを弾圧したため、ネーデルラントの反乱をまねいた。1581年には北部7州がネーデルラント共和国として独立を宣言し、南部はスペイン王の支配下にとどまった。 スペイン領ネーデルラントは、三十年戦争後に分割され、現在のベルギーとルクセンブルクにあたる南部はスペイン領にとどまり、オランダはマーストリヒトといった自国の南部国境地帯を領土にくわえた。 スペイン継承戦争の結果、1713年のユトレヒト条約で、ネーデルラントは一部がフランス領に、大部分はオーストリア領となった。フランス革命の勃発(ぼっぱつ)にひきつづき、90年ネーデルラントで独立運動がおきたがオーストリアに鎮圧された。その後、オーストリアはフランスの革命政府との戦争にまきこまれ、ベルギーは97年、正式にフランスに割譲された。
フランス支配時代にリエージュが領土にくみいれられ、アントウェルペンの貿易が復興し、ベルギーは経済的に発展した。しかし1814年には反ナポレオン諸国の軍隊に占領され、翌年、ナポレオン戦争の最終戦であるワーテルローの戦がブリュッセルの近くでくりひろげられた。 1815年のウィーン会議で、ベルギーとオランダは、ウィレム1世のもとにふたたび統合された。しかし、カトリックの国ベルギーはプロテスタントの支配者をうけいれがたく、30年8月、フランスの革命に触発されて暴動がおこった。オランダ軍はブリュッセルから撤退し、カトリック派と自由主義派が連合してベルギーの独立を宣言した。オーストリア、フランス、イギリス、プロイセン、ロシアといった列強がこれをみとめたため、オランダ側も対抗できなかった。
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