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医学

医学 いがく Medicine
百科事典項目
項目構成
7

ローマ

ローマ独自の医学はほとんど発展せず、ギリシャ医学にたよらざるをえなかった。前1世紀、ローマでギリシャ医学を確立したのは、アスクレピアデスである。彼は体液理論には反対し、体は互いに連絡のない原子によってできていると考えた。そして、この原子の規則ただしい運動がさまたげられたとき、病気になるとした。薬物療法よりも、運動、入浴、食事療法を重視した。著述家ケルススは、外科、皮膚科の記述にすぐれた百科全書をあらわした。ディオスコリデスは、はじめて薬用植物を科学的に研究し、薬物学の父といわれている。ソラヌスは産科学と婦人科学に貢献した。

ヒッポクラテス以後、もっとも重要な人物はガレノスである。解剖学的な知識は、動物の解剖をもとにしているため完全なものではないが、筋肉と脊髄の仕組みと働きを明らかにした功績は大きい。生理学的な研究にもすぐれ、神経の働きなどをたしかめた。また、血液は肝臓からでた静脈と、心臓からでた動脈をとおって末梢へはこばれる。一部の血液は右心室から肺へいき、残りは右心室から左心室へながれると考えた。血液の流れに関するこの説は、誤りであるにもかかわらず、17世紀まで多くの学者に信じられていた。また、どんな傷も、なおる途中で化膿するという理論も19世紀まで否定されなかったため、消毒法の発達をさまたげた。

ローマ医学の最大の功績は、公衆衛生である。上下水道、公衆浴場、病院などの設備は、近代まで、ローマをこえるものはあらわれなかった。

IV

中世の医学

ローマ帝国がほろんだあと、しばらくは医学に進歩はみられない。ひとたび伝染病がおこると、魔術による治療の復活もみられた。しかし、やがてイスラム教徒の医学とローマの古典的な医学が融合して、新しい医学がつくられる。

1

アラビア医学

9世紀、ペルシャでは、ローマから亡命したキリスト教のネストリウス派が、ギリシャの医学を発展させた。フナイン・ブン・イスハークは、ギリシャの重要な医学書をアラビア語に翻訳し、アラブ世界全体にギリシャ・ローマの思想をつたえた。アラブ独自の医学も発展し、すぐれた学者が何人もあらわれる。とくにイブン・シーナーの著作は、数世紀にわたってヨーロッパ医学に大きな影響をあたえた。アル・ラージー(860~932頃)は、天然痘をはじめて確認、はしかについても研究し、感染性の病気の原因は血液にあるとした。12世紀のイブン・ズフル(アベンゾアル)は、ガレノスの医学に疑問をもった点で重要な存在である。彼はまた、ダニによる疥癬をはじめて記録している。アラビア医学は、ギリシャ医学の知識のほかに、多くの化学薬品を治療にとりいれており、当時のヨーロッパ医学よりはるかにすぐれていた。

2

ヨーロッパ

中世初期の医学には、修道院が大きな役割をはたした。とくにベネディクト派は医療活動が活発だった。らい患者は、修道院の診療所とは別に隔離されていた(ハンセン病)。9世紀には、すでにイタリアのサレルノに医学校ができたとされる。キリスト教に関係ない世俗の学校で、おもに食事療法と衛生学をおしえた。十字軍の影響もあってアラビア医学ともむすびつき、11、12世紀には、大いにさかえる。また、イタリアのボローニャ、イギリスのオックスフォード、フランスのパリ、モンペリエに大学(モンペリエ大学)ができ、医学の研究も体系的になった。このように大学で教育される医学をスコラ医学という。ヨーロッパ各地からあつまった医学者は聖職者でもあり、ラテン語を共通語にしていた。中世は、病院が盛んにたてられたが、キリスト教病院は医療施設というよりは、慈善的な施設だった(病院)。この時期になると、修道院の医学は、修道院の秩序を俗化させるという理由で禁止され、終わりをつげた。

中世の外科は、教会が血をながすことを禁止したため、聖職者でもあった医師はたずさわることができなかった。かわりに、床屋や風呂屋などが外科的な治療をおこなった。これに対し、サレルノの医学校やフランスの一部では、一部の医師によって新しい考え方がおこったが、結局はガレノスの医学から脱することができなかった。

ペストなど伝染病が猛威をふるったため、公衆衛生面ではきびしい規制がしかれた。医師という職業に対する法律もととのい、12世紀には、はじめて公的な医師の資格制度がさだめられた。

V

ルネサンス医学

医学の発達に貢献したのは、医学者だけではない。芸術家たちは、人物画に本当らしさをもたせるため、人体、とくに筋肉の解剖の研究をした。レオナルド・ダ・ビンチの解剖図はひじょうに正確だったが、当時はほとんど公表されることがなかった。

時代がすすむと、ガレノスやアラビア医学を批判する学者が何人もあらわれる。1543年、ベルギーのベサリウスは解剖学にとって画期的な大著「人体の構造」を発表し、ガレノスの多くの誤りを指摘した。また、同時代のG.ファロピオも、ガレノスの学説を批判した。ファロピオは、卵管と中耳を発見した人物で、卵管は彼の名をとってファロピウス管と名づけられている。スイス生まれのパラケルススも、ガレノスやアラビア医学を批判した。彼は、はじめてドイツ語で医学書を書いたことで知られる。彼は、錬金術師でもあり、新しい病気を発見し、化学療法をつくりだした。しかしガレノスの影響力は17世紀ごろまで強くのこっていた。

外科は中世には医学としてみとめられていなかったが、ルネサンス期に飛躍的な発展をとげた。フランスのパレは、止血するのに縫合をおこなったことで知られる。先史時代おこなわれていた縫合は、その後まったくおこなわれなくなり、パレ以前は傷口を焼いて止血する方法がとられていたのである。

詩人でもあるイタリアのフラカストロは、伝染病を科学的にとらえ、発疹チフス梅毒などを発見した(梅毒の英語名syphilisシフィリスは彼の詩からついた)。伝染病は自己増殖する微小な種のようなものによっておこるという彼の説は、近代の細菌学病気の理論の先がけといえよう。

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