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項目構成
殷(いん)代(前17世紀頃~前11世紀半ば)の焼き物には基本的に4つのタイプがあり、そのほとんどが首都であった殷墟(現在の河南省安陽市)で発見されている。そのひとつは、新石器時代からの実用品であった縄蓆文(じょうせきもん)や幾何学文をほどこしたあらい灰陶である。2つ目は、暗灰色の土で青銅器を模倣した焼き物。3つ目は、青銅器を思わせるようなうつくしい彫刻装飾のある白陶。そして最後は、原始瓷器(しき)とよばれる灰釉のかかった炻器である。これは、器に灰をぬり高温で焼成することによって釉を発生させたもので、のちの青磁の始まりとして注目される。殷代は、青銅器が独特の発達をとげたことで知られるが、青銅器を鋳造するためにもちいられた高品質の土製の型も発見されている。
殷代の焼き物は、白陶以外、すべて周代(前1050?~前256)にひきつがれた。戦国時代(前453~前221)には鉛釉が開発され、銅を呈色剤とした褐釉がとりいれられた。とくに中国の南方では青みをおびた褐釉炻器が流行し、洗練された形のものがつくられた。 1974年、秦(前221~前206)の始皇陵から発見されたテラコッタ(素焼き)の兵馬俑(へいばよう)の数々は、古代中国の陶芸に関する認識を大きくかえた。ここには、6000体以上におよぶ等身大の兵士と馬による皇帝の軍団が、当時の軍隊の隊列そのままの形でうめられていた。兵士たちの像はうつくしく理想化され、それぞれが微妙にことなった衣装をつけている。全体にあらい灰色の土で成形されているが、頭部と両手は別に焼成され、つけられている。今では大半が剥落(はくらく)してしまっているが、像には鮮やかな鉱物顔料がぬられていた。こうした墓に副葬するためにつくられた人物や動物像、器物などを明器(めいき)といい、とくに人の形をしたものを俑とよぶ。 漢代(前202~後220)は明器が大流行し、大量に生産された時代であった。褐釉や緑釉をかけられた明器のほか、絵具をぬっただけの加彩という技法のものもあった。明器には俑や動物像のほか、高層の楼閣や豚や鳥のいる家畜小屋、ストーブのような道具までいろいろなものが再現されており、当時の人々の日常生活を知るうえで貴重である。また、磚(せん)とよばれる煉瓦(れんが)にも、人々の生活のようすがえがかれているものがある。そのほか、漢代の末に中国南部で、灰釉陶からはやくも原始的な青磁が生みだされたのが注目される。 青磁が完成したのは、六朝時代(220~589)であった。青磁は半透明の鉄顔料による釉を還元炎焼成して、灰、青白、あるいは緑や緑褐色に発色させた焼き物である。この時代、古越磁とよばれる越州窯(えっしゅうよう)青磁が人気を博した。越州窯は器形の種類も多く、壺(つぼ)、水注(すいちゅう)、皿などは輪郭線が繊細で、簡単な刻線や型押しの装飾がつけられている。それまでの焼き物にくらべると、青銅器や他の金属器の形の影響があまりみられない。やがて河北でも青磁が焼かれるようになり、6世紀ごろには初期的な白磁がつくられた。中国は、ヨーロッパにさきんじること1200年もはやく、磁器をつくりだした。
唐代(618~907)には鉛釉の技術がいちだんと向上し、緑や褐色のほか、黄や白、藍(あい)などの釉薬がくわわった。明器の生産がますます盛んになり、これらの多彩な釉を精良な白色の素地にほどこした唐三彩はこの時代を代表する陶器である。国土の拡張を反映して、唐三彩の明器には中央アジアからの影響がみられる。唐代の後半には、窯業地が国内各地にひろまり、青磁、白磁、黒釉陶器が発達した。とくに青磁は、インド、東南アジア、それにイスラム世界に輸出され、各地の窯業に強い影響をあたえた。著名な窯業地としては、河北省の荊州窯、定窯(ていよう)、浙江省の越州窯、湖南省の長沙窯(ちょうさよう)などがある。 あらゆる芸術が開花した宋代(960~1279)は、中国陶磁史においてもっとも偉大な時代である。個性的な窯業地が国内にさらにひろがり、それぞれにすぐれた陶磁器を生みだした。唐代以来の釉薬や陶技は洗練をきわめた。器形は優美で、型押し、彫り、絵付などの技法で、竜や魚、ハス、ボタンなどの文様がほどこされた。これらの文様は宮廷画家たちのこのんだ主題で、それぞれに暗喩(あんゆ)があった。白磁を大量に生産したのは、河北省の定窯と江西省の景徳鎮窯であった。とくに定窯は、繊細で張りのある印刻文様をほどこした象牙(ぞうげ)のようなうつくしい白磁で知られた。定窯の白磁は当時の宮廷貴族たちに高く賞賛されたばかりか、今日にいたるまで世界でもっとも評価の高い焼き物のひとつである。 青磁では、河南省の汝窯(じょよう)、鈞窯(きんよう)、陝西省の耀州窯、浙江省の竜泉窯などがそれぞれ特色ある製品を生みだした。汝窯は明るい灰青色の釉がかかった炻器で、釉表面にはいった細かい貫入(かんにゅう:ひび)がうつくしい。鈞窯は、青からラベンダー色までの微妙な諧調のあつい青磁釉の上に、銅の赤や紫で斑点や流しがけがくわえられた。とくに、宮廷御用のための植木鉢や水盤は鈞窯の名品である。南宋の竜泉窯は、明るい青緑色の玉(ぎょく)のような青磁釉を生みだし、数多くの製品が輸出された。形は古代の青銅器にならったものから、中東の金属器やガラス器の影響をうけたものまで豊富である。 江西省の吉州窯は天目茶碗や黒釉陶で知られ、インドネシアや東南アジア、フィリピンなどに輸出された。福建省の建窯も黒褐釉陶で有名である。宋代後半に発達したのは河北の磁州窯で、白化粧の上に鉄絵具で大胆な筆致の絵付をほどこしたり、掻落し、彫文、線刻、印刻、型押しなどの技法を駆使して変化にとんだ製品を生みだした。磁州窯のやきものは幅ひろく人気をあつめ、あらゆる社会階層でもちいられた。
13世紀中葉、中国はモンゴル(蒙古)族に征服されて、陶磁器にも新たな西方からの影響がおよんだ。元朝(1271~1368)では、拡大しつつある輸出市場にむけた生産がおこなわれ、がいして焼き物は大型化し、重くなった。 中国各地の窯業地の中でも景徳鎮窯が急速に繁栄し、他を圧していった。景徳鎮窯で完成された透明釉の下にコバルトの青で文様をえがく青花(染付)磁器は、以後長く内外で人気を博した。青花にもちいられる酸化コバルトは、中国国内で供給されるようになるまでイランから輸入された。元の青花磁器は、青の発色、線描ともに力強く、しかも図柄が自由奔放で溌剌(はつらつ)としており、今日もなお評価の高い焼き物である。同じく、釉下にほどこした銅の赤によって文様をえがく釉裏紅(ゆうりこう)も、この時代に開発された技法である。 青花は明代(1368~1644)の主要輸出品となった。16世紀のヨーロッパで愛好され、17世紀後半にはヨーロッパへの輸出が最高潮に達した。景徳鎮には宮廷用の陶磁器をつくる官窯が確立され、以後の各時代を代表するような高品質の製品が生みだされた。宮廷からは、渦巻や果実、花、人物のいる風景など、ひじょうにさまざまな新しい意匠が提供された。また、陶磁器には皇帝の治世をしめす銘款がいれられるようになり、すぐれた作品の銘款は後世しばしば模倣された。多彩色の磁器や単色釉磁器、白磁も、明代に発達した。とくに、青花による輪郭線の中に、赤、緑、黄色などのエナメルで上絵付した豆彩(闘彩)は、絵付が繊細できわめてうつくしい。この技法は五彩(赤絵)ともよばれ、明代末期に独特の作風を展開した。
明末清初の動乱期に一時衰退した景徳鎮は、清朝(1644~1912)になって復興し、数々の伝統的な技法を再現するとともに、新たな釉薬や技法を開発した。粉彩(琺瑯彩ともいう)とよばれるエナメル彩色技法は、五彩の一種で、七宝の上絵具をもちいた。これはヨーロッパで「ファミーユ・ローズ」ともてはやされた。中心となる色は繊細で不透明なピンク色で、その金属顔料はコロイド状の金からとられた。粉彩によって、陶磁器にも油絵のような陰影のある細密で精確な絵付が可能となった。そのほかの多彩色のエナメル絵付には、緑、黄色、それに茄子紺(ファミーユ・ベルト)や、それから派生した黒地(ファミーユ・ノワール)、黄地(ファミーユ・ジョーン)などがあった。 単色釉では、明代に人気があった銅の赤による牛血紅や桃花紅などが復活し、宋代の青磁もほぼ完全に再現された。中国南部の福建省の徳化窯や江蘇省の宜興窯(ぎこうよう)などでは、白磁の人形や赤色炻器の急須などの茶器が大量に生産され、ヨーロッパに輸出された。ひじょうに高い技術的水準に達した清代の陶磁器は、18世紀のヨーロッパで熱狂的に収集された。しかし、清代末期までには、古いモティーフや器形の繰り返しによっていきづまり、中国はもはやヨーロッパで大量に生産される陶磁器に対抗できなくなった。
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