関連項目
検索
エンカルタ内で検索 : 陶磁器

Windows Live® の検索結果

  • 陶磁器 - Wikipedia

    陶器 は、この項目へ 転送 されています。その他の陶器については「 陶器 (曖昧さ回避) 」をご覧ください。 陶磁器 (とうじき)は、土を練り固め焼いて作ったものの総称。やきもの。 セラミック の一種で、 畿内 より東では 瀬戸物 (せともの)と呼ばれ ...

  • 品野陶磁器センター 愛知県瀬戸市

    窯元直販の陶磁器の総合百貨店デパート、だからお値打ち陶器がいっぱいです

  • 日本陶磁器工業協同組合連合会

    日本陶磁器工業協同組合連合会のホームページです。 ... 日本陶磁器工業協同組合連合会は日本で唯一の、陶磁器製の食器・台所用品・ 置物メーカーの全国団体です。

すべての検索結果 :
Windows Live® の検索結果
ページ 4 / 8

陶磁器

陶磁器 とうじき
百科事典項目
マルチメディア
長次郎作、赤楽茶碗「夕暮」長次郎作、赤楽茶碗「夕暮」
項目構成
2

朝鮮

朝鮮の焼き物は、つねに中国からの強い影響をうけて発達したが、たんなる模倣を脱し、独自の世界をつくりあげている。朝鮮半島では、おそくとも前4000年ごろに土器がつくられはじめ、やがて櫛(くし)状の道具で平行刻線をつけた櫛目文土器があらわれた。その後、前1千年紀初頭には、中国の影響をうけた黒陶、紅陶がつくられた。紀元前後には、ろくろをもちい、高火度で焼成した灰陶の一種、金海式土器があらわれた。

高句麗新羅百済の3つの国が鼎立(ていりつ)した三国時代(4世紀から7世紀後半)には、それぞれの地方色があらわれ、とくに新羅でつくられた土偶のついた灰陶や、カモや騎馬人物などをかたどった土器はよく知られている。これらは、日本の須恵器の母体となった焼き物である。緑釉の始まりは中国にくらべておくれ、現在のところ、7世紀ごろとみられている。統一新羅王朝(668~935)を特徴づけるのは、骨壺として墓から出土する灰色硬質炻器で、これには黄褐、緑褐の鉛釉がかけられたものがあった。

中国の宋代の影響の強い高麗時代(918~1392)には、中国の越州窯の影響をうけて青磁がつくられはじめ、独自の発達をとげた。とくに品格の高いうつくしい青磁は、翡色(ひしょく)青磁とよばれ、高麗の貴族たちの間で賞賛された。青磁には、高麗独特の象嵌(ぞうがん)技法で文様がほどこされた象嵌青磁のほか、鉄絵、辰砂(しんしゃ)などの多彩な装飾技法を駆使して鳥や花などの上品な文様がほどこされた。

象嵌青磁の技法は、朝鮮(李氏朝鮮)時代(1392~1910)にはいって、粉青沙器(粉粧灰青沙器)という焼き物にひきつがれた。粉青沙器は日本では三島ともよばれ、白泥のスリップで化粧がけをほどこした炻器である。釉薬や技法は青磁とよく似ているが、象嵌や印刻などによって、より自由奔放で素朴な文様がほどこされている。日本の茶の湯で賞賛される井戸や粉引(こひき)などの高麗茶碗もこの仲間である。儒教が重んじられた李氏朝鮮時代には白がとうとばれ、白磁が大量に生産された。朝鮮の白磁は、中国の白磁にくらべると、釉調や器形に柔らかみがあり、簡素ながら品格が高い。また、青花や茶褐色の鉄絵、赤い辰砂による絵付にも、独特の伸びやかさがある。小品では、筆筒(ひっとう)や筆架(ひっか)、水滴(すいてき)など、文人好みのさまざまな文房具が白磁でつくられ、青花で風情のある意匠がえがかれた。

3

日本

日本で最古の焼き物は、縄文時代(前1万1000頃~前400頃)につくられた縄文土器である。縄文土器は、器表面に縄や、縄をさらにむすんだりよじったりしたものをころがして文様をつけたところからこうよばれる。このほか、小枝をきざんだようなもの、爪(つめ)状のもの、貝殻などももちいられた。この方法によって、世界の新石器時代の土器の中でも、おどろくほど多種多様で独創的な文様が生みだされた。また、口縁部に火炎を思わせるような突起状の装飾や、ヘビや人形のような装飾をはりつけた土器も発達した。

特殊な器や呪術(じゅじゅつ)的な土偶にはていねいにみがいたり、ウルシや赤い酸化鉄をぬったものもある。一般に低火度で焼成され、色は赤褐色から黒っぽいものまでさまざまである。器形は圧倒的に深鉢が多いが、時代がくだるにつれて、浅鉢、注口土器、吊手(つりて)土器など、種類がふえる。1万年以上におよぶ縄文時代は、全国各地で特徴のある土器様式が次々と生まれ、土器編年をもとに草創期から晩期までの6期に区分されている。

弥生時代(前400頃~後250頃)には、縄文土器とは際だった対照をみせる弥生土器がつくられた。弥生土器にはろくろがもちいられ、器形は簡潔でバランスがとれている。滑らかな器表面には線刻や簡単な貼付文様のほかは、ほとんど装飾がほどこされない。低火度の酸化炎で焼成され、器表面は黄や淡褐色を呈し、ときに朱がぬられることもあった。弥生土器は朝鮮半島から九州にわたってきた渡来系の人々とその技術でつくられ、しだいに東日本にもひろまっていった。弥生土器の名前は、このタイプの土器が最初に発見された東京都文京区弥生町の名にもとづいている。

古墳時代(3世紀末~7世紀)には、2種類の焼き物が発達した。ひとつは弥生土器の系統をひく土師器(はじき)とよばれる無釉で赤焼きの焼き物である。現在も「かわらけ」とよばれている土器は、この仲間である。土師器は、日常の食器としてもちいられたほか、祭祀(さいし)などのためにもつくられた。古墳時代の後半以降、天皇や豪族たちの巨大な墳墓から発見される埴輪も土師器の一種である。もともとの埴輪は墳墓の周囲をかこむ土止めといわれ、単純な円筒形であったが、やがて、家、舟、動物、女性、狩人、楽人、戦士など、さまざまな形のものがつくられた。日本の埴輪は始皇陵の兵馬俑のような壮大さや力強さにはかけるが、素朴でユーモラスな味わいがある。

もうひとつの焼き物は高火度で還元炎焼成された灰色の炻器、須恵器である。焼成中に燃料の木からでた灰がかぶって、とけた自然灰釉がかかっているものがある。壺、瓶(へい)、皿、碗など製品の種類はひじょうに多く、彫像をつけたものもある。須恵器の技術も朝鮮半島からの帰化人によってもたらされ、帰化人が多くすんだ大阪の陶邑(すえむら)をはじめ、全国に数多くの窯跡がひろがっている。

3 A

奈良時代から鎌倉時代

奈良時代(710~793)には唐の影響が顕著になり、日本ではじめての色をつけた鉛釉陶器が発達した。単色の緑釉や黄褐釉のほか、緑と白の釉をかけわけた二彩陶器がつくられた。とくに有名なのは、唐三彩を模倣して緑、褐、白の3色の釉を灰色がかったあらい素地にかけた奈良三彩とよばれる陶器である。釉はかけ流しや斑文風にほどこされており、唐三彩のようには洗練されておらず、明器もつくられていない。奈良の正倉院には、奈良三彩の遺品がきわめてよい状態で多数伝世しており、正倉院三彩として知られている。

平安時代(794~1179)前半には、三彩陶器への関心は急速にうすれ、ほとんど生産されなくなった。かわって、新たに中国からもたらされた越州窯青磁の影響をうけて、これを模倣した緑釉陶器が盛んにつくられるようになった。しかし、遣唐使の派遣などがとだえた平安時代後期には、緑釉陶器の生産も衰退した。いっぽう、須恵器の流れをひいた灰釉陶器が愛知県の猿投窯などを中心につくられ、各地にも窯業地が発達しはじめた。

鎌倉時代(1180~1332)にはいって、ふたたび中国の宋との接触が再開されると、猿投窯の系統をひいた窯が中部・東海地方にひろまり、常滑、渥美(あつみ)、瀬戸などの窯業地が発達した。瀬戸では、宋で人気のあった青磁を模倣して、黄瀬戸などの高級陶器で、各種製品や、仏花器、コマ犬などの特製品を生産した。常滑は、主として日常的につかわれる壺、甕(かめ)、擂鉢(すりばち)を中心に生産した。鎌倉時代の末には、北陸には越前、加賀、珠洲(すず)、西日本では丹波、備前、信楽、伊賀など、それぞれに特徴のある窯業地が発達し、これらの窯業地の多くは、今日にいたるまで製陶業がつづいている。がいして器の種類はかぎられ、壺や甕などが中心であった。

3 B

室町時代から桃山時代

室町時代(1333~1573)の足利家の将軍たちはかならずしも陶芸を奨励したわけではなかったが、喫茶から発展した茶の湯がこの時代にはじまり、茶席でもちいられるうつくしい焼き物、いわゆる茶陶の生産が各地の窯業地に刺激をあたえ、新たな需要をひきおこした。従来の壺、甕、擂鉢を中心とした器種のほか、茶入、水指(みずさし)、茶碗、花生け、香合、向付(むこうづけ)などさまざまな器が生産されるようになった。評価が高く人気のあった茶碗のひとつに、中国の建窯でつくられた天目(てんもく)がある。天目は、黒紫褐色のあつい釉の上に油滴のような斑文や竜などの意匠がほどこされた高価な茶碗で、瀬戸ではこれを模倣して黒褐色の天目茶碗を大量に生産した。

桃山時代(1574~1599)は、日本の陶芸史上でもっとも茶陶が発達した時代である。茶の湯が武士階級や商人階級にもひろまるにつれ、各地の窯業地はいちだんと個性豊かな製品をつくるようになった。前代からの窯業地のほか、瀬戸に隣接する美濃、西日本では唐津などが味わい深い茶道具を生みだした。

とくに有名なのは楽焼で、これは現在も楽家の一族によってつくられている。楽焼のほとんどは茶碗で、手捻(てびねり)でつくりだされた形は、左右非対称、不均衡の美学にもとづいている。釉は刷毛でいくつものうすい層にぬられ、低火度で焼成される。釉がとけたとき、茶碗は窯からはさみ道具でひきだされ、急冷され、その急激な温度変化によって釉にはひびが生じる。楽焼は、その簡潔な形とやわらかくくすんだ釉で、日本独特の焼き物と評価され、世界じゅうの陶工たちに賞賛されている。

もうひとつ、茶の湯の世界でこのまれたのは、古田織部の創出した織部焼(織部)であった。織部焼は、褐色の酸化鉄でえがいた染織文様のような大胆な意匠と、半透明の緑釉の不規則な流しがけとの組み合わせがきわめて斬新な焼き物である。また、李氏朝鮮の影響をうけた萩や唐津も、とくに愛好された茶陶である。絵唐津はのびのびとした草花や幾何学文様が簡素な筆致でえがかれている。備前焼も桃山時代に最高潮に達した。備前は基本的に無釉のかたい炻器で、煉瓦のような赤色をしているが、焼成時の酸化炎と還元炎の変化で色が不規則な変化をみせている。

3 C

江戸時代以降

江戸時代の初めには、日本でも磁器が生産されるようになった。現在もなお磁器の主産地である九州北部の有田近郊でカオリンが発見され、有田一帯は急速に磁器の一大生産地に発展した。これには朝鮮系の陶工の技術の影響があった。有田焼は、製品が伊万里港から輸出されたことから伊万里焼ともよばれた。伊万里焼は、中国の明末清初の動乱期に、中国の磁器にかわって大量にヨーロッパにもたらされ、その明るい色彩と華やかな意匠が人気を博した。とくに酒井田柿右衛門が開発した上品な赤色をもちいた洗練された色絵磁器は、ヨーロッパの貴族たちの羨望(せんぼう)の的であった。

また、伊万里を領有していた鍋島藩(なべしまはん)では特別な御用のための藩窯をきずき、採算を度外視した精緻で気品のある鍋島焼をつくらせた。鍋島焼の多くは大小数種の皿類で、純白の器面に絹織物の意匠などを大胆にデザインしたものが多い。意匠ははじめ薄紙にえがかれ、染付でひかれ、華やかなエナメル彩色がくわえられている。生産量が少なかったため、色鍋島はとくに珍重されている焼き物のひとつである。同じころ、東日本には古九谷とよばれる重厚で力強い作振りの色絵磁器があった。九谷焼は北陸の石川県で焼かれたとみられていたが、古九谷と同様の意匠の破片が有田で出土し、有田でも生産されていたとされている。

京都もまた、江戸時代に花ひらいた窯業地であった。京都では前代からの楽焼のほか、野々村仁清尾形乾山、奥田頴川(えいせん)、仁阿弥道八(にんなみどうはち)、青木木米らの個性的な作陶家が輩出した。彼らは、近代的な意味での陶芸家の先達で、それぞれに工房をもち、作品に署名をのこしたものもいる。江戸時代には、全国的にさまざまな窯業地が発達し、その製品は国内交通の整備とともに流通し、それぞれに影響をおよぼしながら、活発な生産がおこなわれた。なかでも大生産地であったのは瀬戸と唐津で、「せともの」「からつもの」という言葉は焼き物の代名詞としてのこっている。

明治期以降、ヨーロッパの万国博覧会などで紹介される日本の精緻な陶磁器は賞賛をうけたが、逆に日本ではヨーロッパの製陶業における近代的な機械技術をとりいれ、大量生産体制への基礎を確立して、従来の窯業地を中心に大規模な製陶工場がつくられていった。

いっぽう、そうした大量生産の風潮に対して、手仕事の美を追求する河井寛次郎浜田庄司らのいわゆる民芸の陶芸家たちの作品も高く評価されるようになった。浜田庄司はその作品のみならず、民芸の復興をはたした力強い存在として注目されている。そのほか、板谷波山荒川豊蔵、加藤唐九郎らは、桃山時代の古陶にまなびながら、独自の作風を加味した焼き物を数多くのこした。

また、第2次世界大戦後には、八木一夫らの前衛的な陶芸活動が展開され、陶芸の世界にオブジェとしての新生面をひらいた。現在、日本では、従来の製陶業地で高級品から日用品にいたるまで大量に生産する企業のほか、個性的な作品を工房から生みだす陶芸家、それに数多くのアマチュアが多種多様な作品を生みだしている。

前のページ
| | | | | | |
次のページ
項目内で検索
項目全体を印刷
項目の URL をメールで送る




© 2009 Microsoft