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これまで中東で発見されたもっとも古い焼き物は、アナトリア(現在のトルコ)のチャタル・ヒュユク遺跡出土の土器で、前6500年ごろにさかのぼる。ここから発見された土器には素焼の宗教的な地母神とみられる女性像や母子像などの土偶にくわえ、素地にクリーム色のスリップをかけ、赤褐色の土で簡単な水平の線文や鋸歯文、格子文をえがいた彩文土器がある。また、黄色がかった土器や、灰色、ベージュ、あるいは煉瓦のような赤色の土器などもあり、紐作りで、叩(たた)きや研磨をほどこしている。パンを焼くような簡単な構造の窯か、いくつかの焼成室をもつ窯で焼かれたと思われる。 アナトリアでは前3千年紀にはいると、ていねいにみがきあげて光沢をだした黒色磨研土器や赤色磨研土器がつくられた。赤色磨研土器の伝統は長くつづき、前2千年紀にはより薄手で複雑な器形が発達した。そのほか、新石器時代の土器として注目されるのは、主としてシリア、レバノンを中心とする土器である。ここでも女性像のテラコッタのほか、暗色の磨研土器がひろい範囲でつくられた。土器の中には、爪形の刻文や貝殻の縁でつけた櫛描文のほどこされたものもある。
メソポタミア北部で最古の彩文土器は、前5千年紀の少し前までさかのぼる。ティグリス川東岸のサーマッラーでは、壺、鉢、皿などの土器が大量につくられ、すでに様式化された人物や動物像が、黄色がかった素地に赤、茶、黒などの色でていねいにえがかれている。やがて、より高品質の多彩色土器がテル・ハラフ(現シリア領)でつくられた。ハラフ式とよばれる土器は、良質の粘土をもちい、焼成技術にすぐれ、表面はていねいに研磨され、またスリップがかけられていた。2、3色をつかった華やかな彩色で、幾何学文、人物文、牛などの動物文をえがいている。 同じころ、ペルシャ地方、つまり現在のイランでは、明るい色のスリップの上に幾何学文様をえがいた彩文土器がつくられた。前4千年紀までには、ろくろがつかわれるようになり、さらに北部からペルシャに移住してきた人々が、赤と灰色の単色の土器をもたらした。ウバイド期(→ ウバイド文化)(前4千年紀)の最盛期に、スーサ周辺では良質な土をつかって数多くの飲用の器や鉢を生産した。黄緑色のスリップをかけた土器には、自由な筆致で幾何学文や植物、鳥、ヘビ、大きい湾曲した角のヤギなどの動物、それに棒のような人間の姿が盛んにえがかれた。 施釉陶器は、前1500年ごろに生産されはじめたと考えられている。当時のメソポタミア北部にさかえたミタンニ王国の王宮があったヌジや、アッシリアの首都アッシュールからは、淡青や茶、白などの彩釉をほどこした陶器が出土している。また、イランのアゼルバイジャン地方ジビエからは、有名な金銀製品のほかに、数多くの大きな彩釉壺が発見され注目をあつめた。それらは黒紫、青、黄、白などの鮮やかな色彩で、肩部に蓮華文、胴部に有翼の雄牛やイラン独特のコブウシなどをえがいたもので、前8~前7世紀ごろと考えられている。 メソポタミアでもっともすぐれた施釉製品は、建築装飾にもちいられた煉瓦である。装飾煉瓦の伝統は前3千年紀のウルクにはじまる。ウルクでは、太い円柱の表面や壁面を幾何学的な彩色モザイクでおおっていた。モザイク装飾は、頭の部分に彩色をほどこした円錐形の鋲(びょう)のような土製品を壁にうちこんでつくられた。カッシート人の支配下にあったバビロニア(前2千年紀半ば)では、無釉のテラコッタによるタイルが神殿や宮殿の表面に化粧張りされた。 前8世紀を通じてアッシリアの王サルゴン2世の都であったコルサバードには、動物の行進がえがかれた型作りの彩釉煉瓦で入り口を装飾した神殿があった。彩釉煉瓦の伝統は前6世紀のバビロンで頂点に達し、ネブカドネザル2世の壮麗な宮殿や有名なイシュタル門、行列大路などの壁面が、青、青緑、黄、白、黒紫などの鮮やかな彩釉煉瓦でおおわれた。現在ベルリンにあるイシュタル門と行列大路には、700頭ほどの雄牛や竜、ライオンが肉厚の浮彫風につくられている。また、玉座のあった部屋の壁面にも、ライオンの行列と列柱があらわされ、周囲をパルメットやロータスの蕾(つぼみ)の装飾帯がかこんでいた。
先王朝時代の前5千年紀、エジプトでは、ていねいにみがかれ、わずかに紐状装飾をほどこした薄手の土器があった。前4千年紀には、赤や褐色、あるいは黄色がかった素地に幾何学文や動物像をえがいた粗雑な彩文土器がつくられた。この時代に異彩をはなつのは、俗に「ブラック・トップ」あるいは黒頂土器などとよばれる、全体が赤く、口縁部だけが黒い磨研土器である。無文のものが多いが、線刻でシカなどをえがいたものもある。 3000年におよぶエジプト王朝時代には、おびただしい数の土器や彩文土器がつくられたが、とくにエジプトで発達したのはファイアンスである。ファイアンスというのは粉状の石英を多くふくんだ素地に暗緑色あるいは青色の釉をかけて焼きかためた土製品であるが、同名の、のちのヨーロッパの錫釉陶器とはまったく別の性質のもので、陶磁器というよりはむしろガラスに近い。ファイアンスの生産は、前2000年ごろの中王国時代に盛んになり、墓に副葬するためのカバやイヌ、ネコなどの動物像、ウシャブティ(死者とともに埋葬される小さな召使いの像)などのほか、ビーズや宝石などの装身具類、優雅なカップや鉢、タイル、さらにはスカラベ(聖甲虫)にもこの技法が多用された。
青銅器時代後期(前1500~前1050)および鉄器時代初期(前1050~前750)の古代地中海域やエーゲ海域の島々、とくにクレタ島やキプロス島では、白色のスリップの上に黒褐色と赤褐色の2色で幾何学文や抽象文、タコやイルカなどの海の動物、人物像などをえがいた彩文土器がつくられた。あまり実用的とも思えないような奇抜な形のものがあるいっぽう、軟膏や化粧品をいれるための容器はきわめて繊細な形をしていた。そのほか、地母神と思われる女性像も数多くつくられた。
陶器の製作は、古代ギリシャでは重要な芸術とみとめられていた。ギリシャ陶器はろくろを使用し、地元の土で成形された。日本では慣習的に陶器とよんでいるが、釉薬がもちいられておらず、厳密には土器の範疇(はんちゅう)にはいる。器形はひじょうに豊富で、それぞれの形にはすべて名称がつけられ、ギリシャの社会と儀式において特別の機能をもっていた。 たとえば、アンフォラは背の高い、2つの把手のある貯蔵容器で、ワインや穀物、油や蜂蜜などがいれられた。ヒュドリアは3つの把手のある水甕である。レキュトスは背が高く、首の細い香油をいれる瓶で、葬儀の際の供物としてもちいられた。キュリクスは、台と2重の把手がついた酒杯である。口縁部がつきでた水注はオイノコエで、ワインをつぐのにもちいられた。クラテルは、大型の鉢でワインと水をまぜる容器である。絵のついた陶器のほか、無装飾の黒色陶器がギリシャ・ヘレニズム時代を通じてつくられた。 青銅器時代には、ギリシャ人は窯中の炎の酸化と還元作用を利用して、クリーム色や褐色、黄褐色の素地に黒色の光沢のあるスリップを生みだした。はじめ抽象的であった装飾は、青銅器時代中期(前2000~前1500)までには、自然のモティーフをもとに様式化した意匠に変化した。青銅器時代後期までにはミュケナイ人によって、植物、海の生物、空想上の動物などが陶器にえがかれた。2輪戦車にのる戦士の意匠にすぐれたものがある。 前1000年ごろ、アテネの幾何学様式の陶器がミュケナイにとってかわり、ミュケナイ様式は前6世紀までに衰退した。ひじょうに緻密にえがかれた円や格子文、鋸歯文や連続鉤形文などの装飾帯や、戦士や行列する人々などを水平に配置した幾何学様式の大きなクラテルが、アテネのディピュロンの墓地で発見された。それらは、前750年ごろと年代づけられている。 前8~前7世紀にはロードス島やコリントスで、東方化様式とよばれる陶器が大量につくられ、地中海各地に輸出された。これは、有翼の動物などが器面をぐるりととりまいて連続する多彩色の陶器である。 前6世紀の初めになると、アッティカの陶工たちは黒絵式の陶器をとりいれた。黒絵式というのは、酸化炎と還元炎の使い分けによって、赤い素地の上に黒で図柄を表現する技法である。黒い図像の細部は細い錐(きり)のような道具でけずって線描し、肌や衣装の部分には白や赤紫の彩色がくわえられた。ギリシャ神話に題材をとった場面がえがかれたほか、行列や2輪馬車、動物文などの前時代からの意匠もみられ、幾何学文や植物のモティーフでかこまれている。 装飾はつねに器形とうまく調和している。装飾は動物よりもより人間の姿を強調するようになり、仕事や戦闘、宴会にのぞむ人々や神々、楽士、婚礼などの儀式、遊戯をしたり化粧をする女性などのテーマがこのまれた。神話や文学の情景がしだいにふえ、神々や英雄の姿には名前が書きそえられたものが多い。作品に名前をのこす陶工や陶画工があらわれ、エクセキアスや「アマシスの画家」などの名工の存在が知られている。今日では、たとえ署名がなくても、彼らの名前や様式が同定されるまでに研究がすすんでいる。 赤絵式のギリシャ陶器は前530年ごろに開発され、とくに前510~前430年の間に人気が高まった。黒絵式とは反対に、背景が黒くえがかれ、人物は赤褐色の土の色そのままにのこされる。人物の細部の描写は黒でえがかれ、この技法により画家はより自然で自由な表現が可能になった。絵付は、色を調合するためにうすくなり、赤や白の補助的な色はあまりもちいられず、金が細部にくわえられることもあった。人体の表現はより自然になり、前480年以降は、とくにしぐさや表情がうつくしく微妙に表現された。 白地レキュトスとよばれる死者とともに埋葬された香油瓶は、胴部の柔らかな白色の画面に、死者やその家族など、ゆかりの人々の悲愁の姿が、細い線描と赤や黄、青などの色彩で繊細にえがかれ、静謐(せいひつ)な雰囲気の優品が多い。古代ギリシャの絵画作品はほとんど現存しないが、こうしたギリシャ陶器によって、絵画芸術の高さをうかがい知ることができる。 「ペンテシレイアの画家」「アキレウスの画家」「フィアレーの画家」などすぐれた陶器画の名手が輩出し、ギリシャ陶器は最盛期をむかえた。赤絵式陶器の生産は、中心であったアテネやコリントスのみならず、ギリシャの島々にもひろまったが、前4世紀にはいるとしだいに衰退していった。そして、ヘレニズム時代には、黒くぬりつぶした器表面に簡単な貼付文や印刻文をほどこした黒色陶器が主流となった。
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