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項目構成
15~16世紀にイタリア各地の町でつくられたマヨリカ陶器は絵付がいちだんと発達し、黄、オレンジ、緑、トルコ・ブルー、紫褐、黒などの鮮やかな色がつかわれた。スペインのイスパノ・モレスク陶器にみられたようなイスラム世界的要素がなくなり、ルネサンス絵画にも共通する神話や歴史に題材をとった物語画(イストリアートという)、肖像画などがふえた。マヨリカ陶器を産出したファエンツァ、フィレンツェ、カステル・デュランテ、カファジオーロなどの町には、著名な陶画工が輩出し、デルータやグッビオの町はラスター彩で知られた。器形の種類も豊富で、大小さまざまの皿、鉢、壺などのほか、把手付き水注、アルバレロとよばれる胴部がわずかに細くなった薬壺、タイルなどがある。 錫釉陶器の技法は、16世紀以降、陶工たちの移住にともなってアルプス以北のヨーロッパ各地にひろまった。フランスやドイツなどでは錫釉陶器をファイアンスとよぶが、これはイタリアのファエンツァに由来する。フランスではルーアンやヌベール、ムスティエ、マルセイユ、ドイツではフランクフルトやバイロイト、ニュルンベルクなどの町で、それぞれに特徴のある絵付のファイアンスが生産されはじめ、18世紀に全盛期をむかえ、19世紀まで高級陶器として人気をたもった。ファイアンスは、ノルウェーやスウェーデンなどの北欧でもつくられた。 ベルギーにつたわった錫釉陶器は、17世紀中葉、陶工たちとともにオランダのデルフトを中心とする町々へうつった。デルフト一帯では、当時高価な値段で取り引きされていた東洋の輸入陶磁を模倣し、中国の明代の青花や日本の伊万里焼の倣製品を錫釉陶器で大量に生産、17世紀を通じて大いに隆盛した。デルフト一帯の工場はそれぞれに個性的な窯印を採用し、それは中国でも模倣された。また、オランダの建築にかかせないタイルにもこの技法を応用し、当時の生活や風俗をえがいたタイルが大量に生産された。これらの錫釉陶器は、デルフト陶器の名でよばれている。 17世紀後半には、デルフト陶器はオランダからイギリスにもたらされ、ロンドンのランベスで生産がはじまった。やがて、リバプール、ブリストル、ダブリンなどに次々と窯がきずかれ、たのしい絵付の製品が大量につくられた。これらはイングリッシュ・デルフトとよばれ、1770年代にクリーム・ウェア(後述)が普及するまで、磁器につぐ人気商品であった。
中世ヨーロッパの焼き物の主流は、素地のあらい無装飾の土器で、各地で似たような壺、鉢、皿などの雑器類がつくられていた。やがて鉛釉陶器があらわれ、13~14世紀ごろには、緑や褐、黄褐などの釉をかけた把手付き水注(ジャグ)などが、ロンドンやパリなどの遺跡から出土している。とくにイギリスの中世陶器には、人面を装飾したような手のこんだものがあり、注目される。また、イギリスのスタッフォードシャーでは、17世紀後半から、スリップを筒描きして図柄をえがくスリップウェアが発達し、トマス・トフトらの名工が大皿などの個性的な作品をのこしている。イギリスでは長い間スリップと鉛釉でかざられた陶器がつくられ、その伝統は移民によって新大陸アメリカにももたらされた。 また、ドイツ、オーストリア、スイスなどの中央ヨーロッパでは、16~17世紀、ジャグや型作りのタイルに鉛釉をほどこしたいわゆるハフナー陶器が人気を博した。「ハフナー」とはストーブをつくる職人のことで、彼らは神話の物語をいきいきと浮彫でえがいたタイルで、大きなストーブをくみたてた。 ヨーロッパの炻器は、14世紀の末からドイツのラインラント地方のケルンやジークブルク、レーレンなどの町で発達した。この一帯は豊富な森林資源にめぐまれ、炻器のような高火度を必要とする焼き物には適していた。ラインラントの炻器には塩釉がかけられた。塩釉は、窯の温度が最高に達したときに塩をなげこんで一種のソーダ釉を発生させ、器表面を光沢のある被膜でおおったものである。ドイツの炻器には、ひげのある男の顔をほった器や、器面に精緻なレリーフ装飾をほどこしたジークブルクの白色炻器など、浮彫を多用した器が多い。また、青や紫釉、エナメル彩色などを併用したものもある。 17世紀後半以降、炻器はイギリスでも大量に生産され、1720~60年には、スタッフォードシャーですぐれた白色塩釉炻器がつくられた。スタッフォードシャーはまたクリーム・ウェアの中心地でもあった。クリーム・ウェアは、デボンシャーの白土と、焼いて生石灰にしたフリントをまぜた土をもちいた硬質の鉛釉陶器で、磁器の代用品として人気をあつめた。 スタッフォードシャーの製陶業者ウェッジウッドはクリーム・ウェアの改良実験を重ね、ついにはクリーム・ウェアに青みがかった釉をかけた、かがやくばかりにうつくしいパール・ウェアを開発し、磁器に対抗した。炻器では、ブラック・バザルトという無釉の黒色炻器や、白色炻器の素地に金属酸化物をくわえてあわい色をつけたジャスパー・ウェアなどを開発し、肖像付きのメダルやギリシャ神話に題材をとった新古典主義的な浮彫装飾の花瓶などをつくった。彼は、いちはやく銅版転写などの新技術をとりいれ、経験や勘にたよっていた製陶技術を化学的に分析し、近代的な設備の製陶工場をエトルリアにたてるなど、ヨーロッパの製陶業の近代化に大きな役割をはたした。
白い宝石としてヨーロッパで珍重された中国の磁器、とくに青花磁器を模倣する試みは、すでに16世紀のイタリアでおこなわれていた。メディチ磁器は、メディチ家の援助によってフィレンツェでつくられた。これは一種の軟質磁器で、磁器というよりは不透明ガラスに近く、たいへんにもろく、実用化にいたらなかった。 17世紀末には、各地の有力な王侯貴族が東洋の陶磁器を熱心に収集するいっぽう、有能な化学者らにその国内生産の可能性をさぐらせていた。1709年、ドイツのドレスデンで、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世の命をうけた錬金術師ベットガーらによって、ヨーロッパで最初の硬質磁器が完成した。翌年には、近郊のマイセンに王立磁器工場が設立され、程なく豪華ですぐれたマイセン磁器が生みだされるようになった。 マイセンは東洋磁器の模倣にはじまったが、すぐにヨーロッパ的な器形や装飾意匠を創案し、その後のヨーロッパ磁器のモデルとなった。すぐれた絵付師ヘロルトの芸術性の高いシノワズリー(中国趣味)や、偉大な彫刻家ケンドラーによる磁器彫刻の数々は、今日もなお、世界でもっとも評価の高い磁器のひとつである。とくにケンドラーは、彫刻のみならず、有名な「スワン・サービス」など膨大な数のディナー用食器類一式をデザインし、今日のテーブルウェアの基礎をつくった。 マイセンが秘匿した硬質磁器の製法は、程なくしてウィーンやベルリン、ニュンフェンブルクなどに漏洩(ろうえい)し、各地に次々と磁器窯がひらかれていった。しかしマイセンはそのつめたいまでにうつくしい白磁によって、ヨーロッパ最高峰の磁器として18世紀前半の陶芸をリードした。 七年戦争以後、衰退したマイセンの代わりに人気をあつめたのは、フランスのセーブル磁器であった。セーブルは、もともと1738年にバンセンヌにつくられた軟質磁器工場であったが、国王ルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人の後援をえて、56年パリ郊外のセーブルにうつされ、フランス王立磁器工場となっていた。セーブル磁器は軟質磁器で、貴族的なロココ趣味(→ ロココ様式)の器形に、青、トルコ・ブルー、黄、緑、ローズ・ピンクなどの華やかな地色をぬる。さらに、金で縁どった白抜きの窓の中にエナメル彩色で花や鳥が優美にえがかれている。 また、彫刻家ファルコネらによるビスキュイとよばれる白色素焼の磁器彫像にもロココ趣味あふれる優品が多い。フランスでは、リモージュ近郊でカオリンが発見され、1771年にリモージュ工場で硬質磁器の生産がはじまるが、84年、セーブルの王立工場の傘下にはいった。 イギリスでつくられた最初の磁器は、1745年にチェルシー磁器工場でつくられた小さなクリーム入れであった。チェルシーではロココ風の高級磁器や磁器人形などを生産したが、69年、工場がダービーに売却されてからは、新古典主義的な様式が主流となった。 1748年には、ロンドンのボウ磁器工場のトマス・フライが、素地に牛骨の粉をまぜて純白にしたいわゆるボーン・チャイナ(骨灰磁器)の特許を取得したのが特筆される。ボーン・チャイナは、硬質磁器よりはやわらかいものの、軟質磁器よりは耐久性、価格などの点ですぐれ、たちまちにしてローストフト磁器工場やウースター磁器工場、スタッフォードシャーのスポードらによってとりいれられた。
19世紀のヨーロッパでは、銅版転写で絵付をしたり、型をもちいて浮彫装飾をほどこした大量生産、大量販売のための廉価な陶磁器が人気を博した。これらはアメリカ合衆国にもひろまり、とくに19世紀初期にイギリスで発達した、マンガン紫をもちいたロッキンガム釉は、ニュージャージー州やオハイオ州の製陶地で人気があった。こうした廉価な陶磁器が、伝統的な塩釉炻器にかわり、徐々に日常用器の中心になっていった。 ヨーロッパでは、アール・ヌーボー様式、1900年のパリ万国博覧会、1920年代のバウハウスの運動などのさまざまな芸術活動が、工業的に生産される陶磁器の意匠にも影響をおよぼした。また、産業的な陶磁器のみならず、小規模な工房や陶芸家たちの活動が重要な要素となってきた。1860年代のイギリスの「アーツ・アンド・クラフツ運動」は、ウィリアム・ド・モーガンなどの陶芸家やランベスにあったドルトン陶磁器工場の塩釉炻器に影響をあたえた。 アメリカでは、19世紀末以降、シンシナティのルクウッドや、ボストンのグルービー・ファイアンス、それにデトロイトのピュワビックなどの小規模な工房が新鮮な感覚の陶磁器を生みだし、陶芸界に刺激をあたえつづけた。日本で修業し、日本やイギリスの民芸陶器を吸収したイギリスの陶芸家バーナード・リーチや、20世紀の陶器復興のリーダーともいえるマイケル・A.カーデューらの仕事は、陶器職人の伝統をいちだんと高めた仕事として、国際的な評価をうけた。 現在、陶磁器は従来からの食器や装飾品はもちろん、タイルや衛生陶器、人工歯骨などの医療品、さらには航空宇宙関係部品にいたるまで、幅ひろい産業分野のさまざまな目的のために生産されている。→ セラミック
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