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歴史上の古代社会と近代社会の間に位置する政治・社会制度をさす学術用語。日本では古代中国(周代)に王が国ごとに諸侯をおいて分権的に統治させる政治体制をさした封建制の語がそのまま適用された。そのため封建制といっても、その内実はヨーロッパ、日本、中国など、それぞれの歴史過程に応じてことなる。
西洋史ではフューダリズムFeudalismといいあらわされ、中世の支配階層の間で、封の授受を媒介にしてむすばれた主従関係をさす。封とはおもに土地とそこに属する農民に対する支配権で、これを主君が家臣にあたえるかわりに、家臣は軍役をはじめとするさまざまな奉仕をおこなった。封建関係は、主君と家臣の間で託身と誠実誓約の儀式によりむすばれた。ただし主君や家臣といっても、ともに自由人で、社会的には同輩の場合もあって、その点で西洋史でいう封建制は、領主と農民の間にみられた領主制とはことなっている。 西洋史でいう封建制には2つの側面がある。1つは主君と家臣の間の保護と奉仕という人的な側面であり、もう1つは封の授受という物的な側面である。人的側面は家臣制とよばれ、もとはローマ時代のクリエンテラ制や、ゲルマン人の従士制にさかのぼる。物的側面は恩貸地制とよばれ、メロビング時代に従士に対しておこなわれた土地贈与などに起源がある。これら2つの慣行は8世紀中ごろには法的にむすびつき、そこから封建制が成立した。 7世紀末~8世紀前半、フランク王国は慢性的な戦争状態にあった。メロビング王家の宮宰だったピピンやカール・マルテルは、戦勝の報償として教会の土地をとりあげて、自分たちの家臣にあたえていった。家臣はこれをもとに武装して主君につかえ、教会には税をしはらった。家臣制と恩貸地制はこうして一つに結合し、カロリング朝のもとで封建制はさらに一般化していった。 こうした封建的主従関係は、ときに「カロリング朝封建制」ともよばれるが、9世紀後半にカロリング帝国が解体すると、地方の権力者たちも家臣との間に封建関係をむすぶようになった。また弱小の土地所有者は自分の土地を有力者にゆずり、家臣となってあらためて恩貸地としてゆずりうけることを余儀なくされた。 こうして封建制は社会の根幹をささえる制度に成長した。またそれとともに古い時代にはみられなかった特徴もあらわれてきた。たとえば11世紀には「恩貸地」という言葉にかわって「封」という言葉がもちいられるようになった。また家臣のおこなう託身の儀式は「オマージュ」とよばれるようになった。さらに重要なのは、この時代から家臣にあたえられる封が世襲とみなされるようになったことである。 11~13世紀中ごろが封建制の全盛期である。封建制はもともとライン川とロワール川の間で発達したが、11世紀後半になると、この地域の支配者たちは南イタリアやシチリア、イングランド、さらには第1回十字軍によって聖地を征服し、それぞれの土地に封建制を移入した。12世紀には南フランス、スペイン、北イタリア、ドイツなどでも封建制がある程度導入されている。第4回十字軍によりビザンティン帝国が封建化されたのちは、中部や東部ヨーロッパにも封建制がみられた。 ヨーロッパの封建制では、土地は究極的には国王に由来し、国王は土地を唯一神からえたという前提がある。国王はそこで土地を封として諸侯にあたえ、諸侯はオマージュと誠実誓約をたてて国王に奉仕することが要求された。また諸侯は封の一部を騎士にあたえることもあった。騎士は諸侯にオマージュをおこない、封に応じた奉仕をおこなった。さらに騎士がより下位の人間に対して封主となり、奉仕させることもあった。こうした再下封を通じて社会全体が封建化されてゆき、頂点には国王が、中間には大小のさまざまな領主が、そして底辺には騎士が位置する封建ピラミッドが形成された。 家臣は複数の主君と封建関係をむすぶこともあった。多重封臣制とよばれるもので、主君と家臣の関係を錯綜させ、だれに優先的に奉仕すべきか混乱することもあった。そこから優先オマージュという慣行が成立し、主君のひとりに優先してつかえることがきめられた。またフランスでは「わたしの家臣の家臣は、わたしの家臣ではない」という規則が確立され、家臣が自分の主君の主君に対してたたかっても反逆とはみなされなかった。ただしイングランドではウィリアム1世以降、国王が陪臣にも誠実宣誓することが要求された。 戦場における軍役は封建制の根本だが、家臣は主君に城があれば、その守備にもつかねばならなかった。イングランドでは、国王に対する家臣の義務はマグナ・カルタがさだめている。たとえば金銭的援助については、国王の長女の結婚、長男の騎士叙任、国王自身の身代金支払いに限定された。フランスでは、これにくわえて主君が十字軍にでかける際にも金銭的援助がおこなわれた。家臣は助言をあたえるという彼らの義務を盾に、家臣にかかわる事柄を決定する際には主君が家臣の同意をもとめるよう要求した。 13世紀になると封建制度は発達の頂点に達し、しだいに変質して衰退するようになる。再下封はすでに限界にまで達し、主君は家臣から軍事奉仕をえるのが困難なほどになっていた。家臣はまた軍役のかわりに軍務代納金や盾料とよばれる金銭での支払いをのぞむようになった。また主君も金銭をうけとって、かわりに訓練された専門の兵士をやとうことをのぞんだ。百年戦争で実際に勝利をもたらしたのは傭兵、とりわけ弓をあやつる歩兵だった。 封建制の軍事的意義は、中世末期にはうしなわれたが、封建的な法観念や慣行はその後も西ヨーロッパの伝統の中に生きつづけ、とくにイギリスで顕著だった。ヨーロッパ大陸では封建法はローマ法にとってかわられたが、イングランドではコモン・ローに封建法が生きつづけ、また主君と家臣による双務的契約という考え方は、近代の契約説にうけつがれた。こうして封建制はヨーロッパ政治の発展に重要な役割をはたしたといえる。
日本で封建制の語がもちいられるようになったのは江戸時代のことで、荻生徂徠、太宰春台、頼山陽らの知識人は同時代の政治体制を中国の封建制と類似したものと考えた(儒学的封建制概念)。これに対し、明治期にヨーロッパの歴史学が日本に導入されると、ヨーロッパ中世のFeudalism(フューダリズム)に「封建制」の訳語があてられ、鎌倉幕府と御家人の関係にこの西洋的封建制概念がもちいられるようになった。さらに昭和になってマルクス主義的な歴史学がひろまると、その影響をうけて封建制=農奴制として理解されるようになり、現在ではヨーロッパ中世の農奴制を基本的な視点として、およそ以下のように考えられている。 すなわち、主従関係をむすぶ領主たちが支配階級として政治権力を構成し、自立的な生産者である農民から高率の年貢・夫役などをとる。このような関係を基本になりたっている社会体制が封建社会であり、その社会を規定する制度を封建制(封建制度)とするものである。 日本史では、今日おこなわれている古代・中世・近世・近代の4区分法の中の中世と近世をひろく封建社会とするが、中世に封建制が社会全体を規定するほど発展していたかどうかについては、さまざまな説がある。大きくわけると、(1)平安後期に成立する荘園制のもとでの小農民と、それを支配する大土地所有者としての荘園領主の関係を封建制の具体的な展開とみるもの、(2)南北朝期以降の荘園制崩壊過程にみられる小農民経営の進展と、それをもとにした領主の成長を主従制の形成ととらえ、それを封建制の展開とみるもの、(3)16世紀末の豊臣秀吉による太閤検地によって、それまでの家父長的大経営が否定され、小農民経営(=農奴)を権力の基盤とする幕藩制社会の出現で封建制が確立したとみるもの、などである。 また国家権力を封建制の中にどのように位置づけるか、あるいは中世社会と近世社会との差異をどのようにとらえるのかなどについても、さまざまな説がある。日本における封建制の終期については、江戸幕府の崩壊、すなわち明治維新とするのが一般的だが、ヨーロッパでは中世封建制と近代資本主義との間に絶対主義とよばれる一時期があり、日本の明治政府を絶対主義政権とする考えもある。
中国では古代、おもに周代の統治制度をさし、秦帝国の郡県制に対比される統治形態をいう。 周の前半、西周王朝は黄河中・下流城を支配したが、そのすべてが王の直轄地だったわけではなく、大部分の領土は王族や家臣にあたえて統治させた。このように、周王室から領土をあたえられ、その領地の統治にあたった者を封建諸侯とよび、封建諸侯をとおして間接的に民衆を統治する制度を封建制とよぶ。諸侯は領土をあたえられたのと引き換えに、周王室に対しては忠誠をちかい、軍事行動にも参加した。 西周時代の封建制度については、古文献に記録がのこっているものの、西周よりものちの時代の思想が記述に混入しており、記録のどこまでが真実かは不明である。ただ、発掘された西周時代の青銅器の銘文に、諸侯が同王室からどのように封建されたかについての記述があり、周王朝による封建制がおこなわれていたことはまちがいない。
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