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フランス

フランス France
百科事典項目
マルチメディア
フランスの国旗・国歌フランスの国旗・国歌
項目構成
2 E

百年戦争

百年戦争は、バロワ家のフィリップ6世の即位に際して、フィリップ4世の娘の子であるイングランド王エドワード3世がフランス王位を要求し、フランスに侵入したことからはじまった。しかし、真のねらいは3つの領地の確保にあった。毛織物産地で、遠隔地貿易の中心を占めていたフランドル、赤ワインの産地で、天然の良港ボルドーをもつギュイエンヌ、穀物産地のガスコーニュである。百年戦争は商品生産や流通の発展にともなう経済戦争だったのである。

1348年から数年間にわたって、フランスで流行した黒死病も、国際的な交易活動の産物だった。西アジアの風土病だったペストは、東西貿易にともなって地中海を横切ってフランスに上陸した。農民の中から多数の死者が出て、人口が激減し、皮肉にも生きのこった農民の地位は向上し、農村の領主の立場は弱くなった。14世紀後半になると、自己の力を自覚した都市や農村の民衆は、社会的な主張をするようになる。ジャックリーの乱、パリでおきたエティエンヌ・マルセルの暴動はそのような性格のものだった。

2 F

ブルゴーニュ公国

バロワ朝第2代のジャン2世は、古くからの通商の要所で、ワインなどの農産物の重要な産地だったブルゴーニュを3番目の子フィリップにゆだねた。重要な地域だったので身内にゆだねたのだが、フィリップは結婚によって、フランドルを手にいれ、岩塩のとれるブルグント伯領も獲得し、本家よりも豊かなライバルに成長していく。15世紀の初め、ブルゴーニュ公国は、政治的な独立をもとめてフランスの敵イングランドと同盟をむすんだ。一方、王位をもつバロワ家を支持したのは、フランス南西部で独立した地位をもっていたアルマニャック伯と王族のオルレアン公家だったが、弱体であった。

2 G

ジャンヌ・ダルク

バロワ朝第4代のシャルル6世(在位1380~1422)が精神に異常をきたすと、フランスの混乱は最高潮に達した。イングランド軍は1415年にフランスに上陸し、アザンクールの戦に大勝したが、ブルゴーニュ派はイングランド王を支援した。そして、22年にシャルル6世が死去すると、イングランド王ヘンリー6世がフランス王位をかねることになる。シャルル6世の子は、フランス王シャルル7世としてアルマニャック派にはみとめられていたが、気の弱い人物だった。ジャンヌ・ダルクがあらわれたのは、そのようなときである。

ジャンヌは軍勢をひきつれて、イングランド軍をうちやぶり、シャルルに戴冠式(たいかんしき)を挙行させた。このあと、シャルル7世は自信をえて、ブルゴーニュ公と和をむすぶとともに、イングランド軍をフランスからおいだして百年戦争を有利に終結させ、フランスを再建した。

2 H

イタリア戦争(1494~1559)

シャルル7世の子ルイ11世(在位1461~83)は、ブルゴーニュ公をくだし、なかば独立していた諸侯の領地を併合した。そして、その子シャルル8世(在位1483~98)は、ナポリ国王の地位をもとめてイタリア半島に進出したが、ハプスブルク家の包囲に直面することになった。この当時のハプスブルク家は、本拠のオーストリア、ハンガリー、スペイン、南イタリア、さらにフランス北部のフランドル、ブルグント伯領などを支配しており、フランスをとりかこんでいた。

神聖ローマ皇帝の称号をあらそったフランソワ1世(在位1515~47)をへて、その子アンリ2世の代にイタリア戦争は終結する。だが、この時代から国王にとって、国内の統一と同時に、国際政治と国際経済での主導権確保が課題になり、すでにフランソワ1世は1530年代に、カルティエに命じてカナダの探検をおこなわせていた。

2 I

ルネサンスと宗教改革

フランソワ1世の治世になると、もはや国王に匹敵する権力をもつ領主はいなかった。王は、行政機構を中央集権化し、高等法院を再組織するなど法制度を整備し、公文書をフランス語で書くようにした。また、フランソワ1世は、フォンテンブローの王宮の改築のためにイタリアの芸術家をまねいて、ルネサンス様式をとりいれ、王国の第一人者として威厳を誇示した。レオナルド・ダ・ビンチも晩年、フランス王にまねかれて来訪し、フランスで死んだ。

王家に挑戦できるほどの大領主は存在しなかったが、16世紀の後半になると、王族たちが、王を味方につけて権力をにぎろうと抗争を重ね、それに信仰をめぐる対立が重なった。16世紀前半には、ローマ・カトリック教会を堕落しているとし、そもそも、人と神の間に巨大な教会組織は不要と考える人々、すなわちプロテスタントが登場していた。バロワ朝は、信仰の分裂が王国支配をゆるがすことを心配して、プロテスタントを弾圧した。しかし、やがて王族の何人かがプロテスタントの立場をとるにおよんで、カトリック支持者とプロテスタント支持者の対立は政治的な色彩をおび、ユグノー戦争(1562~98)に突入する。ユグノーとは、カルバン主義のプロテスタントを意味した。

バロワ朝第10代のアンリ2世の死後、3人の息子が次々に王位についたが、いずれも短い治世ののちに世をさり、1589年にバロワ朝は断絶した。王位継承権をもつ者はブルボン家のアンリだけだった。彼はユグノーの指導者だったが、フランス王国臣民の大半がカトリック教徒であることを理解しており、とんぼ返りと称してカトリックに改宗し、アンリ4世として王位を確保した。キリスト教は今や統治の手段でしかなかった。

3

絶対王政の時代

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