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アンリ4世は、プロテスタントに信仰の自由をみとめる「ナントの王令」を発して対立をやわらげ、戦乱で打撃をうけた農民のために、税の軽減や領主の権利の制限などの政策をとり、また、運河の建設、道路や橋の改修工事などで商工業者を応援した。一方、優秀な下級貴族からなる官僚に権限をあたえ、名門貴族を王国の中枢から遠ざけた。また、売官制をおしすすめて、平民にも行政上の官職を購入できるようにした。 王は、この制度を利用して、国庫の窮乏をすくい、民間の優秀な者を行政機構に吸収し、同時に名門貴族たちの権限を骨抜きにした。国王が圧倒的な強さで国内を支配する体制を絶対王政とよび、フランスは、アンリ4世の治世に絶対王政の時代に入った。
アンリ4世は1610年、カトリックの聖職者に暗殺された。アンリの子がルイ13世として、9歳で即位した。16歳になるとルイは、摂政として政治をうごかしていた母を幽閉し、親政をはじめた。ルイをたすけたのはリシュリューだった。彼は、王の支配を邪魔する者をゆるさず、反乱をおこしたプロテスタントや反抗する貴族たちを冷酷に抹殺した。そして、中央に宰相をおき、地方には監察官をおく仕組みを法制化した。対外的な戦略は、ハプスブルク家の力を弱めることにおかれた。18年からの三十年戦争では、リシュリュー自身はカトリック教会の高位聖職者だったが、プロテスタント諸国と同盟をむすんで、ハプスブルク家から領地をうばった。
1643年にルイ13世は41歳で死んだ。跡継ぎのルイ14世は、まだ5歳だったため、実際の政務はマザランがとった。三十年戦争をおえてヨーロッパの大国となったフランスをフロンドの乱(1648~53)がまっていた。既得権の侵害に憤慨する名門貴族たちのこの反乱には、パリの民衆や農民が参加した。マザランは反乱を鎮圧すると、名門貴族の地元に官僚をおくりこみ、容赦なく権限をうばった。 マザランが死去したとき、ルイ14世は23歳だったが、宰相をおかず、親政をはじめた。ルイは専門家をあつめて各種の国務会議を設置し、また数人の大臣をおいて中央政府を構成させた。大臣には、下級貴族出身の優秀な人材を登用したが、とくにコルベールは、国内産業を育成し、自国の海運力によって輸出する政策をとり、また海外進出の拠点となる植民地の確保に努力した。地方に派遣される監察官は、徴税や司法、警察、軍事、また公共事業を担当し、地方総監の役割をはたすようになった。 王国統治の中枢としてベルサイユ宮殿が建設されたが、この宮殿には、建築、造園など、当時の最高の技術がつかわれ、その後、世界の王宮の模範になった。また、完成後の王宮では、オペラ、バレエ、コンサート、晩餐会(ばんさんかい)などが開催され、フランス文化の基礎がきずかれた。 ルイ14世が親政をおこなった54年間に、計30年におよぶ4回の大戦争がおきた。戦争の目的は、国土を拡大し、世界経済の主導権をにぎることにあった。これらの戦いを通じて、長い間のライバル、ハプスブルク家とオランダの地位は低下した。しかし、イギリスだけは長い戦争をのりこえて、18世紀に世界の海を支配することになる。
1715年にルイ14世は77歳直前で死去した。すでに、王位を継承すべきルイの子と孫は死去していた。こうして5歳の曽孫(ひまご)がルイ15世として即位した。以後74年までの60年近い彼の治世は、フランスの歴史の中でもっとも豊かな時代であり、また国際社会におけるフランスの地位がもっとも高い時代だった。フランスの人口は、1700年の2100万人から90年には2800万人まで増加し、農業生産は同じ期間にほぼ60%増加した。また、約5000隻の船舶をもって、西インド諸島、アフリカ、インドとの間で海外貿易をいとなんだ。農業技術の改良や、金属、化学などの新しい産業が育成され、自然科学の研究が奨励された。また言論統制が緩和されて、啓蒙思想が普及した。しかし、見かけの華やかさの陰で、フランス社会は曲がり角にさしかかっていた。 フランスにとって大きな打撃となったのは、オーストリア継承戦争(1740~48)、七年戦争(1756~63)の2度の戦争でイギリスの海軍力の前に屈したことであった。2度の戦争の間、フランスとイギリスは植民地をめぐってたたかい、フランスは、インドと北アメリカ大陸のカナダをうばわれた。海外進出の二大拠点をうしなったことで、その後の国内における産業の発展においても、フランスはイギリスに大きく後れをとることになる。 経済の繁栄は国家の財政にほとんど寄与しなかった。全国の土地の10分の1をもつ聖職者と、10分の2をもつ貴族には免税の特権がみとめられていた。平民の場合にも、すむ場所や職業によって免税の特権を手にいれることができた。豊かな者ほど、税をはらわずにすんだのである。行政機構の充実、18世紀からの軍事や土木の専門家の養成機関の拡充、再三にわたる戦争、これらに要する出費は借金でまかなわれたが、18世紀の半ばをすぎると、国庫の赤字は、もはや手のほどこしようのないものとなっていた。 大事にされた王「ビアン・エメ」という愛称をもち、多数の愛人をめぐるエピソードだけをのこしたルイ15世も、その孫のルイ16世も、こうした事態に対処する能力はなかった。運のわるい貧困な者だけに負担がかかる税制ではなく、豊かな者が応分に税を負担する仕組みにかえればすむことだったが、これには特権をもつほとんどの者が反対した。事態は、国家の仕組みの核心をなす身分制そのものにふれざるをえなくなり、国家財政の危機とその解決方法をめぐって多様な議論が生まれ、社会の中で対立が表面化していった。
王国の財政事情はアメリカ独立戦争への介入でさらに悪化した。税制改革を実施するために、ルイ16世は、1789年5月5日、ベルサイユに三部会を招集した。しかし、第三身分選出議員は、6月17日に国民議会と名のることを決定し、憲法の制定まで散会しないことを宣言。ここに憲法制定国民議会が成立した。7月14日、政府が国民議会を武力で解散させようとすると、パリの民衆はバスティーユの要塞(ようさい)を崩壊させた。これがきっかけとなって、パリでは新しい市政が成立し、この動きは全国に広がった。各地でおきる蜂起(ほうき)に貴族層がおびえる中で、8月4日の夜、議会は封建的な特権の廃止を決定した。ついで、富裕な市民層を中心とした議会は、91年秋に憲法を制定した。フランスは憲法にもとづく王政(立憲王政)となり、三権分立の原則が確立された。→ アンシャン・レジーム:フランス革命 王は、革命政府に対するヨーロッパ列強の干渉戦争で革命政府がたおれることをのぞんだ。1792年4月に対外戦争がはじまったが、フランス軍は敗退を重ね、民衆のいらだちは王家にむけられていった。8月、パリの民衆は蜂起し、議会は王政を廃止した。フランス史上はじめて成人男子全員が参加する普通選挙が実施されて、国民公会が成立し、9月にはフランス共和国の成立が宣言された。そして、ルイ16世が93年1月に処刑されると、ヨーロッパじゅうがフランスとの戦争に突入した。国内では王政支持者の扇動で反乱がおき、食料不足やインフレで、民衆のいらだちがつのった。国民公会の中では急進的なジャコバン派の公安委員会が権力をにぎり、民衆の要求する生活必需品の価格の統制や、王妃マリー・アントワネットや貴族などの処刑を実行した。民衆はいさんで戦場へむかい、外国軍を打倒し、苦境を切りぬけた。
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