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項目構成
1794年、フランス共和国軍が内外の敵をおいはらうと、公安委員会の独裁に対する反動がおきた。95年には新しい憲法が制定され、普通選挙は廃されて、豊かな者だけが選挙に参加する、二院制の議会と5人の総裁からなる政府がつくられた。総裁政府は以後5年間にわたって、政治を指導した。しかし、国内では王政の再建を画策する右派と、急進的な政治の継続をのぞむ左派がかわるがわる政府の転覆をはかり、国境ではイギリスなどの軍隊がフランスを包囲していた。総裁政府は人気がなく、富裕階層の中で、より強力な支配をのぞむ者が増加し、若い将軍ナポレオンをえらんだ。99年11月、ナポレオンのクーデタが実行され、ナポレオンをリーダーとする執政政府が生まれた。
ナポレオンの第1の課題は平和の確立にあった。ナポレオンはオーストリアをやぶって1801年に戦争を終結させ、イギリスとの戦争も02年におえた。国内では、革命以来の社会的対立の解消をはかり、経歴にかかわらず人材を登用し、またカトリック教会の復興をゆるして、教会を味方につけた。そして、フランス全土83の各県に知事をおく仕組みと、全国の市町村に広がる警察機構で治安は回復した。この方式は明治維新後の日本でも採用される。さらに、革命期から懸案となっていた各種の法律の整備を完成させたが、その中でとくに民法はナポレオン法典の名で知られている。ナポレオンは経済の仕組みをよく理解しており、フランス銀行の設立と安定した通貨の供給、また、産業の発展のために道路や運河の整備をおこなった。
ナポレオンは1804年に共和政を廃して皇帝になった。05年にはふたたびヨーロッパの戦争がはじまった(→ ナポレオン戦争)。ナポレオンはオーストリア、プロイセン、ロシアをくだし、07年には、ヨーロッパ最強の君主になっていた。しかし、海上の支配権はイギリスからうばうことができなかった。このためナポレオンは、イギリスの船舶をしめだすために06年に大陸封鎖令を発し、これをまもらせるために、イベリア半島へ、ついでロシアに軍をすすめ、12年に50万近い軍隊をうしなった。
ヨーロッパ諸国は、ふたたびフランスをせめた。1813年10月、ナポレオン軍がドイツで大敗すると、戦場はフランス国内にうつり、14年4月、ナポレオンは退位した。フランスの領土は1798年段階に縮小され、5月、ルイ16世の弟がルイ18世として王政復古をはたした。1815年3月、再起をはかったナポレオンは幽閉されていたエルバ島からフランスに帰還し、ふたたび皇帝の座についた。しかし、6月18日、ナポレオンの軍隊はベルギーのワーテルローで敗北し、「百日天下」はおわり、領土はさらに1792年段階にまで縮小された。ナポレオンは今度はアフリカの沖合のセントヘレナ島にながされ、そこで1821年に死去する。ルイ18世はあらためてフランス国王となった。
亡命生活から帰還した旧貴族たちは、かつての地位にもどることを希望して、王弟アルトワ伯の周囲に結集し、過激王党派を結成した。しかし、行政を担当する国王には、社会を革命以前にもどせないことがわかっていた。王国は「憲章」にもとづく立憲王政となり、議会制がとられた。行政機構や法体系もナポレオン時代のものが利用された。そして、王が重んじたのは、王の路線を理解する穏和な立憲王党派であった。 1824年にルイ18世が死去し、アルトワ伯がシャルル10世として即位した。過激王党派は、この機会にフランスを革命前の社会にもどそうと反撃を開始した。しかし、ナポレオン戦争後の不況がおわり、経済が回復するのにともない、金融業者や商工業者などの成長はめざましく、彼らはかつて貴族だった地主たちの言いなりになるつもりはなかった。30年7月、王は選挙法をかえて、議会を地主だけで独占しようとこころみたが、金融業者と商工業者は、学生や労働者とも手をたずさえて、政府を批判する側にまわった。パリでは蜂起がはじまり、「栄光の三日間」の戦いの後、パリの民衆は王宮を占拠した(→ 七月革命)。
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