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パリのまずしい民衆がブルボン朝をたおしたが、支配権は富裕階層がにぎった。彼らは新しい王としてオルレアン家のルイ・フィリップをかついだ。富裕階層が欲したのは、金融業者や商工業者に自由な活動を保障する政府だった。 ルイ・フィリップのもとで、フランス資本主義は大きく発展する。鉄道の建設は、重工業の発展を促進し、農村から都市への人口の移動がはじまり、農村型の社会から都市型の社会へ、農業主導から工業主導の国家へ、フランス社会はかわっていった。貧困階層が集中する都市では、労働者の運動や、資本主義経済の問題を指摘する社会主義運動が登場した。教育水準の向上や印刷技術の向上は活字文化を活発にし、大量生産の新聞や安価な出版物を普及させた。大衆小説が登場し、ロマン派の作家たちの活躍する時代でもあった。→ 七月王政
1845年からの凶作は食料品の高騰をまねいた。農業の危機で工業生産が縮小し、膨大な数の失業者が発生した。零細な商工業にも倒産があいついだ。言論界や政界では社会改革の要求と、それを実現するための普通選挙導入の要求が盛んになり、47年からは普通選挙制を要求する集会が全国で開催されるようになった。48年2月、パリではふたたびバリケードがきずかれ、国王はパリを脱出した。パリの民衆は議会になだれこみ、共和政万歳の怒号の中で臨時政府が樹立された(→ 48年革命)。 パリの民衆の監視下に成立した臨時政府には、社会主義者や労働者が参加し、1848年4月には普通選挙制による議会選挙がおこなわれた。しかし、国民の大半は景気の回復と社会の安定をのぞみ、約900人の当選者の過半数はブルジョワ共和主義者だった。6月、ふたたびパリでまずしい労働者の蜂起が発生した。この蜂起はまもなく鎮圧されたが、労働運動や社会主義運動に対する恐怖や嫌悪を、富裕層から農民にまでうえつけることになった。 1848年11月に制定されたフランス共和国憲法は、普通選挙制による大統領制をさだめていた。12月の大統領選挙に当選したのは、予想外の候補、ルイ・ナポレオン・ボナパルトだった。皇帝ナポレオンの甥にあたるルイ・ボナパルトは、有権者の4分の3に支持されて大統領に就任した。彼は51年にクーデタをおこして大統領の権限を強化し、任期を10年とした。さらに、翌52年12月には、皇帝ナポレオン3世として即位し、フランスの2回目の共和政、いわゆる第2共和政は4年間で崩壊した。
皇帝になったナポレオン3世は、徹底的な言論の統制と、反対派の抑圧をおこなったため、今でも評判がわるい。しかし、のこした業績は大きかった。全国の幹線鉄道網を完成し、商品流通の近代化をはかり、また重工業の技術水準をひきあげた。そして、新しい金融の仕組みをもうけて産業の発展をささえた。さらにパリの改造をはじめとする都市開発をおこない、清潔で通行の容易な都市が各地に生まれた。叔父との違いは軍事的才能がないことであった。1870年7月、フランスはプロイセンに宣戦布告した(→ プロイセン・フランス戦争)。しかし、プロイセン首相ビスマルクは対フランス戦争の準備をととのえており、フランス軍はすぐに苦境にたたされた。9月にはナポレオン3世自身が、主力軍もろとも包囲され捕虜となってしまった。ここに第2帝政は崩壊した。
パリでは1870年9月4日、国防政府が樹立され、共和政が宣言された。国防政府のもとで戦争はつづき、プロイセン軍はフランス国内に深く侵入し、包囲されたパリでは食料が不足した。休戦期間がもうけられて議会選挙が実施されたが、戦争終結をのぞんだ新議会は、アルザスとロレーヌを割譲し、5億フランの賠償金をしはらうことで講和条約をむすんだ。しかし、パリの民衆はドイツに対する屈伏を不服として、71年3月に蜂起し、独立した自治政府パリ・コミューンを結成した。2カ月にわたる彼らのパリ支配は凄惨(せいさん)な戦いでおわった。 議会の多数派は王政への復帰を希望していたが、地主や教会への農民の忠誠心はうすれており、王政を支持する勢力は小さかった。1877年の総選挙で共和政支持者は大勝し、第3共和政が確立したが、80年代~90年代に、共和政は何度かの危機を経験した。80年代には、人気のあったブーランジェ将軍を擁立するクーデタ未遂事件がおき、事件の背後には、将軍の人気を利用しようとする王党派がいた。 1890年代におきたドレフュス事件は、スパイの疑いでドレフュス大尉を有罪とした冤罪(えんざい)事件である。無罪を信じた家族や知人は再審を要求したが、ドレフュスがユダヤ系だったことも重なって世論は二分し、一方の側は、軍事法廷でさばいた軍部の名誉をまもるために再審に反対し、他方は軍部にすくう貴族などの保守派を非難して再審を要求した。再審の可否をめぐるこの事件は、軍部や教会およびその周辺にいた旧支配層と、共和政を支持するグループとの対立になり、最終的にドレフュスの再審と復権におわった。
1870年代~90年代の不況を脱すると、フランス経済は繁栄をむかえた。エッフェル塔の建設された89年と、地下鉄が開通した1900年に開かれた2回の万国博覧会は、フランスの華やかさを世界に誇示した。貧富の格差の大きい社会ではあったが、労働者出身の議員や、貧困な世界から学界や政界に入る者も増加した。社会全体にゆとりが生まれ、20世紀の初めには「ベル・エポック」(美しい時代)という言葉がつかわれた。首都パリを多くの外国人が訪問するようになり、その中には日本人もいた。この時期のフランスは世界の芸術の中心でもあった。印象派の絵画はこの時代の産物であり、文学の世界にもゾラの自然主義やマラルメの象徴主義など、多くの作品が生まれた。
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