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    トピック 中国2010年上海万博フランス館が東京に 17.11.2009 21世紀初めに世界が一堂に会する上海国際博覧会が、2010年5月1日から10月31日まで開催されます。フランスは日本と同様に意欲的なパビリオンとともに参加します。

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フランス

フランス France
百科事典項目
マルチメディア
フランスの国旗・国歌フランスの国旗・国歌
項目構成
6 B

ド・ゴールとレジスタンス

1940年6月18日、無名に近い若い将軍ド・ゴールがロンドンからBBC放送を通じて、フランス軍将兵にむけて、戦闘の続行をうったえた。彼は、イギリスの財政援助をうけて、連合軍の一翼をになう「自由フランス軍」を結成し、小規模の亡命政府を樹立した。そして、フランス本土に生まれたレジスタンス(対独抵抗)組織と連絡をとり、42年になると、彼の使者によってフランス全土の抵抗組織がまとめられ、全国抵抗評議会が設立された。

1944年6月、ド・ゴールは、フランス領アルジェリアにフランス共和国臨時政府を樹立した。同じ6月、連合軍はノルマンディ上陸作戦を決行し、8月にはパリに到着した。ド・ゴールは8月26日にパリに帰還し、臨時政府もパリで業務を開始した。ド・ゴールは46年1月まで、臨時政府首相の座にとどまるが、新憲法の起草に際して彼が主張した強力な行政権は承認されず、辞任した。

6 C

第4共和政

1946年10月、新しい憲法が国民投票で可決され、第4共和政がはじまった。この時代の最大の成果は社会政策の充実だった。同年には、健康保険、老齢年金、失業保険などの社会保障制度が確立された。経済政策についても、アメリカのヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)の資金をもとに戦後復興が進展し、その過程で国有化と計画経済が導入され、戦前のおくれたイメージは一掃された。工業生産指数は48年から58年までに倍増し、農業についても零細農家が減少する中で、化学肥料や農業機械の導入がすすんだ。長く停滞していたフランスの人口も1950年の4183万人から、1965年の4876万人へと増加した。

1957年には、西ヨーロッパ5カ国とともにEEC(ヨーロッパ経済共同体)を結成(発足は1958年1月)し、域内関税の撤廃によって、1億6500万人の共同市場が生まれた。EECは、52年に成立したヨーロッパ石炭鉄鋼共同体、ヨーロッパ原子力共同体と統合されて、67年には、ヨーロッパ共同体(EC)とよばれるようになる。

フランス第4共和政の重荷は植民地問題だった。第2次世界大戦直後からのインドシナ戦争でフランスは9万2000人の兵士をうしない、1954年のジュネーブ協定でベトナムを放棄した。同54年にアルジェリアの独立戦争が勃発(ぼっぱつ)し、軍部は、この最後の巨大な植民地を死守しようとした。しかし、アルジェリアでの戦争には費用がかかり、軍の残酷な行動もつたえられて、本国での評判はわるかった。58年5月、アルジェリア駐屯軍とヨーロッパ系植民者は、本国政府がアルジェリア民族解放戦線に妥協することをおそれて、アルジェリア総督府を占拠し、ド・ゴールを首相とするよう要求した。これにこたえて本国議会は、ド・ゴールに6カ月の間、全権をゆだねることを議決した。

7

現代のフランス

7 A

第5共和政の始まり

1958年9月、ド・ゴールは新憲法を国民投票にかけ、有権者の85%が投票し、うち79%の賛成をえた。新憲法では、大統領の任期は7年で、その権限はきわめて強く、議会の権限は大きく制限された。さらに62年には、大統領は国民の直接選挙でえらばれることになり、その立場はいっそう強化された。58年末の総選挙ではド・ゴール派が第1党になり、また大統領選挙でもド・ゴールが圧勝した。

7 B

アルジェリア問題と対外政策

1959年9月、ド・ゴールはアルジェリアに自治をみとめる声明を発表した。軍部と植民者はふたたび反乱をおこし、大統領に対するテロが続発した。しかし、フランス政府とアルジェリア民族解放戦線の会談は進行し、62年7月、アルジェリアは独立した。さらに、50年代後半に独立を希望していたフランス支配下の多くのアフリカの植民地の独立をみとめ、ド・ゴールは、第三世界の理解者としてふるまうようになる。

ド・ゴールの政治目標のひとつは、世界政治におけるフランスの威信の回復におかれた。まず、対米従属からの自立をめざし、1966年にNATO(北大西洋条約機構)の軍事機構を脱退した。また、アメリカ、ソビエト連邦(ソ連)と対等の立場にたつために独自の核兵器開発を開始した。こうした政策をすすめるフランスにとって重要だったのが、ヨーロッパ経済共同体(EEC)諸国との連帯であり、中国などの第三世界との友好関係であった。フランスを中心として西ヨーロッパ諸国と第三世界をむすびつけ、米・ソとならぶ第3の勢力をきずこうとしたのである。

7 C

フランス社会の革新

ド・ゴールは、フランス経済を原子力、宇宙・航空、化学、電子工業などを中心とする経済に転換しようとした。この政策は、核兵器を軸にして先端産業で武装した軍隊にしようとする軍事戦略ともむすびついていた。効率のわるい産業は切りすてられ、国家の指導のもとで輸出産業、先端産業を中心に大企業がそだてられた。この結果、1959年から70年までの工業生産指数は倍になり、穀物生産は50%増加し、この間の国民総生産の年平均成長率は日本につぐ5.8%であった。国民の購買力は上昇し、フランス人はかつて経験したことのない豊かさを享受した。

しかし、1960年代半ばから、陰りがあらわれはじめた。インフレは進行し、失業者が増大した。高等教育の大衆化で大学生は増加したが、施設の貧しさ、卒業後の就職の可能性の低さなどが、68年春の学生の反乱(五月革命)をひきおこし、学生につづいて、全国で労働者のストライキが発生した。ド・ゴールは、議会を解散して総選挙にうったえ、秩序の回復をのぞむ有権者は彼を支持した。しかし、翌年に提案した制度改革は支持されず、ド・ゴールは政界を引退し、70年に死去した。

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