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ド・ゴールの後任として大統領に就任したのは、長らく首相としてド・ゴールをたすけたポンピドゥーだった。新大統領は、議会の意向を尊重し、また、西ヨーロッパの結束を重視して、イギリスのEEC加盟を承認した。また、国家の威信のために経済を犠牲にしたド・ゴールとはちがって、経済合理性を重視した。しかし、ド・ゴール路線を修正しきらないうちに石油危機がおき、石油価格の高騰でフランス経済が大混乱となる中、これにたちむかおうとしたポンピドゥー自身が、1974年4月に急死する。
いそぎおこなわれた大統領選挙では48歳の財政の専門家ジスカール・デスタンが勝利した。彼は就任まもなく、有権者の年齢を従来の20歳から18歳にひきさげ、若者や女性から要望の出されていた妊娠中絶の禁止を撤廃して、新しい時代の到来を思わせた。経済については、国際競争力のない時代遅れの部門を整理して、フランス経済を若がえらせるために、過剰な国家の介入をさけて、経済の自主性にまかせようとした。しかし、この政策は多くの犠牲者を出した。1979年に2度目の石油ショックがおそうと、失業者は73年の60万人から81年の190万人へと3倍になり、81年の大統領選挙では落選した。
1981年の大統領選挙では社会党のミッテランが当選した。ミッテランは社会党、共産党などからなる内閣をつくり、主要な企業の国有化、社会保障給付金や最低賃金の引き上げなど、伝統的な社会主義的政策を実現した。しかし、インフレは悪化し、失業者はふえた。83年に方向を転換し、石炭、鉄鋼など、衰退産業の切り捨てをおこなったが、失業者は増大し、86年の総選挙で社会党は敗北した。 ミッテランは旧ド・ゴール派のシラクを首相に任命し、新首相は大掛かりな自由化を実施した。国有化された企業はふたたび民営化され、予算案では公務員の給与の凍結や補助金の削減など、緊縮財政がとられた。国家の保護のもとに生きてきた多くのフランス国民はふるえあがり、1988年の大統領選挙で、保守派を代表したシラクは、左派を代表したミッテランに敗北した。 ミッテランの最大の課題は、国際競争力をうしなったフランスの産業と、300万人をこえた失業者をどうするかにあった。産業を合理化すると失業者は増加し、失業者を保護すれば、フランス経済の健全さはそこなわれる。2期目のミッテランは、7年間の任期中、立場のことなる4人の首相を任命したが、結局、経済問題を解決することはできなかった。しかし、在任中パリには多くの記念建造物がつくられて各種のイベントが挙行され、フランス共和国大統領の偉大さを印象づけた。 また、ミッテランの対外政策も国民に評判がよかった。それは、核兵器を軸にして近代的な兵器をそろえ、米ソと肩をならべ、大国としての地位をまもる政策であり、ド・ゴールの路線にほかならなかった。フランスの威信を維持する姿勢も、大統領の威信を強調する姿勢も、ともにド・ゴールのスタイルであった。14年間大統領をつとめたミッテランは、1995年に引退し、翌96年死去した。
1995年の大統領選挙ではシラクが当選した。ミッテラン政権の後半はフランス版バブルの時期と重なっていた。ミッテラン政権末期、各地で社会党関係者による汚職が明らかになり、また14年間におよぶ長期政権で社会党は輝きをうしなっていた。シラクは52%の得票で当選し、ポンピドゥーの死後21年ぶりにド・ゴール派出身の大統領が登場した。 大統領となったシラクは当初、「独自の核」政策によってド・ゴール派ぶりを発揮し、南太平洋のムルロア環礁で一連の核実験を強行した。国際世論の反発は大きく、フランス製品の不買による輸出の不振までがつたえられた。シラクは1996年1月、最後の実験を前に新しい国防政策を発表し、核実験の停止、軍事用の核物質の生産の中止、地上発射核ミサイルの撤廃などを言明し、同時に97年1月から6年間のうちに徴兵制を廃止して、フランス軍を志願兵だけで構成するプロの戦闘員集団とする計画を発表した。地域紛争などの多発する冷戦後の情勢に対応するとともに、国防予算の削減をねらい、さらに国際世論に対する配慮をしめすものであった。他方、シラクが内政において緊急の課題とした失業問題は、問題の根深さを前にして棚上げされ、96年には失業率が12%をこえるまでになった。 シラク政権に課せられた最大の課題は、1999年に予定されるEU(ヨーロッパ連合)の通貨統合の実現であった。この課題をはたすためには財政赤字の解消が前提条件とされ、96年秋に発表された次年度予算案は、大幅な公務員削減をふくむ緊縮予算案であった。失業を増加させかねない、こうした政府の姿勢に労働組合は硬化し、11月に入って鉄道、都市交通、電気、ガスなどで長期にわたるストがおこなわれた。 一方、景気の低迷と失業者の増加から、移民に対する暴行や人種差別の風潮が高まった。移民排斥を主張する極右の国民戦線はとくに南フランスで勢力を拡大し、1995、96年度中に4都市の首長選挙で勝利をおさめた。政府は、これに対して不法入国者に対する規制の強化で摩擦の増大をふせごうとした。97年2月には外国人の宿泊の届出の徹底や外国人の指紋押捺(おうなつ)などを内容とする法案が議会に上程された。これに対して文化人などの抗議デモがおこなわれたが、3月に両院で可決された。また、96年から97年にかけて爆弾テロがあいついで発生した。一連の事件はアルジェリア現政権に反対するイスラム過激派によるものとみられ、こうした事件も一部のフランス人の排外主義的な感情を強めている。
1997年5月に成立2周年をむかえたシラク政権は、通貨統合をめざし、国民の信任をえるために、国民議会総選挙を5、6月にくりあげて実施した。しかし、高失業率や福祉切り捨てをふくむ財政削減政策に対する国民の不満は強く、6月1日の第2回投票の結果、左翼連合が過半数を制した。保守のシラク大統領のもとで、社会党のジョスパン第一書記を首班とする連立内閣が発足した。ジョスパン首相は、通貨統合のための強硬な財政削減政策に反対の姿勢をみせたが、98年度予算では、法人税の引き上げや国防予算の削減などにより、GDP比3%以内の財政赤字をめざすことを発表した。98年5月のEU首脳会議で、フランスの99年からの通貨統合参加が正式に決定した。 ジョスパン内閣は、1997年6月の発足以来、従来の緊縮財政にかわり、消費拡大による景気刺激策をとってきた。その効果があらわれ、98年の経済成長率は3.1%に達し、インフレ率は0.3%にとどまった。失業率も11.8%と十数年来はじめて下降した。しかし98年秋には国会運営や不法滞在者の処遇をめぐって、連立内閣の足並みがみだれ、それまで高い支持率をえていた首相の人気にも陰りがみられた。またさがったとはいえ依然として高い失業率、鈍化の傾向にある経済成長率にくわえ、豊かな社会からとりのこされた50万人といわれるホームレスの存在、未成年者による犯罪の激増と治安の悪化、人口の老齢化にともなう年金制度の破綻(はたん)など、多くの課題に直面した。99年1月、財政赤字3%以内という条件をみたし、ヨーロッパ通貨統合への参加を実現した。 ジョスパン内閣が失業率改善のためにとった方法は、労働時間を短縮して週35時間労働制を実現することだった。ワークシェアリングによって雇用を創出し、とりわけ若年層の失業者をへらして社会の安定をはかり、労働者の余暇をふやすことによって人々のライフスタイルを変革するねらいをもっていた。コスト増による競争力の低下をまねくとして経済界からの反発をうけ、実質的な給与ひきさげにつながるとして労働組合の批判をうけたが、1998年5月に大枠が法制化され、99年12月には細部も法制化されて、2000年から本格的に実施された。フランス経済の好調にもささえられて、1999年の失業率は改善した。 第2次世界大戦中のビシー政権下で、県総務局長としてユダヤ人の強制収容所移送にたずさわったモーリス・パポン元予算相が、1998年4月、ボルドー重罪院で「人道に反する罪」によって禁固10年の有罪判決をうけ、翌年確定した。ビシー政権の対独協力に関しては、95年、シラク大統領が国家としての責任をみとめたが、パポン判決については象徴的な裁判にすぎるとして歴史家からの批判があいついだ。 1999年3月、共和国裁判所は、薬害エイズで過失致死罪にとわれたエルベ元厚生担当閣外相に、有罪を評決した。10月、議会は、同性愛のカップルに相続などをみとめる連帯民事契約を可決した。 2001年3月の統一地方選挙では、保守の牙城(がじょう)だった首都パリに初の左派市長が誕生するなど大都市では左派が健闘したものの、全体としては保守・中道が大きく勝利した。 ブッシュ政権が提唱する「新たなミサイル防衛構想」に疑義をとなえ、地球温暖化防止のための京都議定書からアメリカが離脱したことを批判するなど、フランスの伝統ともいえる独自性を発揮して超大国アメリカとは距離をおいてきた。しかし、2001年9月、アメリカ同時多発テロがおこると、シラク大統領は早々に「最大限の協力」をブッシュ大統領に表明し、10月以降、対アフガニスタン軍事作戦にフランスの陸・海・空軍を投入。ただし、アメリカの攻撃がイラクなどアフガン以外に拡大されることには反対の意を明らかにした。
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