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2002年の大統領選挙は現職シラクとジョスパン首相の右左対決になると目されていたが、4月21日の第1回投票は、ジョスパンのかわりに極右政党「国民戦線」のルペン党首が2位に進出するという予想外の結果となった。欧州統合反対、移民排斥を主張し、人種差別的発言をくりかえしてきたルペンの躍進は、EU諸国はじめ世界各国に衝撃をあたえた。フランス国内の左派、人権派は危機感をつのらせて、反ルペン包囲網を形成し、5月5日の決選投票は、82%という異例の高得票率でシラクが再選をはたした。しかしこの大統領選は、国家主権をうばうものとしてEUに批判の目をむけ、流入する移民を市民生活の安全と職をおびやかす元凶と断じる人々の存在を、あらためてうかびあがらせた。第1回投票で敗退したジョスパンは政界引退を表明して辞任し、新首相には中道、自由民主党のジャンピエール・ラファランが指名された。 つづく同年6月の国民議会選挙では、共和国連合に、フランス民主連合と自由党の一部が合同して「大統領多数派連合」を形成、この保守合同の大勝により、シラク大統領とラファラン首相による政権が本格的に始動することになり、1997年から5年間つづいたコアビタシオン(保革共存)時代はおわった。なお、2000年9月の国民投票にもとづく憲法改正で、大統領の任期が7年から5年に短縮されたため、第2期シラク時代は07年までとなる。 2003年に入っていっそう危機感が深まったイラクの大量破壊兵器問題では、先制攻撃を主張するアメリカ、アメリカに足並みをそろえるイギリスに対し、「武力行使以外に選択肢はある」と、国連の合法性にもとづいた査察の強化・続行を主張。国連安全保障理事会で査察継続派のリーダーシップをとり、アメリカ、イギリス、スペインが提案した武力行使を前提とする新決議案に対して、採決の際には拒否権を行使するつもりであることを明言した。結局、米英は国連決議をへることなく単独で3月20日(イラク現地時間)にイラク攻撃を開始し(→ イラク戦争)、ぎりぎりまで武力行使に反対したフランスは、対米関係だけでなく、イギリスとの間の亀裂も深めることになった。イラクの戦後復興についても、米英軍による占領統治を切りあげて、早期にイラク側に主権を委譲するよう主張した。イラク戦争をめぐるシラク政権の一連の対応は戦争に反対する多くの国民に評価され、この時期、シラクの支持率は高水準に達した。
しかし、国内では、世界経済の減速にともなって2001年以降GDPの実質成長率がおちこみ、財政赤字は、02年につづいて03年、04年とも、EUの安定成長協定の規定枠であるGDP比3%を突破している。懸案の退職年金改革については、03年5月、公務員の保険料支払い期間(37.5年)を民間(40年)並みに延長する、などの改革法案が議会に提出された。この「痛みをともなう年金改革」に対して左派政党や労働団体が一斉にはげしく反発。5月から6月にかけて、公務員を中心にした大規模なデモやストライキが全国的に展開され、鉄道・航空・地下鉄・バスなどの運休、学校閉鎖、郵便局や公立病院の業務の一部停止などがあいついだが、法案は7月に下院で可決され、9月に成立した。 2003年7~8月にヨーロッパをおそった熱波は、各地で山火事をおこし、農作物や家畜に大きな打撃をあたえたが、なかでもフランスでは、1万5000人近い死者を出す最悪の事態となった。犠牲者の多くは高齢者で、一人暮らしの孤独死も相当数にのぼった。高齢者支援のための体制づくりが緊急課題として浮上したが、財政難の現状で高齢者対策費の捻出が困難とみた政府は、休日の1日を廃止して、余分にはたらくことでふえる税収を高齢者施設の建設などにあてるとする法案の実施を提案した。 2004年1月、旧政党「共和国連合(RPR)」の党資金不正疑惑をめぐる第一審で、シラクの側近で次期大統領候補と目されていた与党UMP党首で元首相のジュペに有罪判決がくだった(12月、控訴院判決で有罪が確定)。ジュペは7月に党首を辞任して政界の表舞台からはなれ、かわって、断行型の政治手腕で国民の人気をあつめるサルコジ財務相がUMPの新党首に選出された。一方、04年3月に実施された統一地方選挙で、与党UMPは社会党などの左派連合に大敗した。とくに地域圏議会選挙では、フランス本土の全22議会のうちUMPが第1党の座を確保できたのは1つだけという惨敗ぶりだった。国民のきびしい審判をうけたラファランは、第3次内閣をくんで再出発したが、UMPは、6月のヨーロッパ議会選挙でも社会党に大差をつけられ、9月の上院(元老院)の一部改選では単独過半数をうしなった。 2004年3月、公立学校でイスラム教徒の女生徒にヒジャーブ(髪をおおうスカーフ)の着用を禁止する法律が成立した。「公教育の場での非宗教性」を徹底するためシラク大統領が法制化をもとめたもので、ユダヤ教徒のキッパ(小さな丸帽子)や大きな十字架のアクセサリーの着用も同時に禁止された。しかし実質的には、国内で500万人にのぼるといわれるイスラム教徒の共同体主義に対する警戒とうけとめられ、その波紋は国外にまで広がった。8月には、イラクの武装組織がフランス人記者2人を人質にしてヒジャーブ禁止法の撤廃を要求する事件がおこったが、同法は9月に施行された(記者2人は12月に解放された)。 ジョスパン首相時代に導入された週35時間労働制は、生産性と国際競争力の低下につながるとして見直しがはかられ、2005年3月、先進諸国で最短の法定労働時間はそのままで、時間外労働の規制枠を拡大する緩和法が成立した。賃金積み増しの保障がない時間外労働の延長をみとめることに対して、社会党や労働組合、多くの国民は強く抵抗したが法案は成立した。一方、バカロレア試験の科目数を半減して平常点などの総合評価を合否の基準にくわえるという教育改革法案は、学校差別につながるとうけとめた全国の高校生が反対して2月に10万人デモをおこない、事実上の廃案となった。
拡大EUの基本法となるEU憲法条約の批准は、シラクにとって第2期政権最大の課題だった。その批准手続きとして、シラクは、承認されることが確実な議会の議決ではなく、あえて国民に直接はかることをえらんだ。しかし、2005年5月29日に実施された国民投票の結果は、賛成票45%に対して反対票が55%と、予想以上の大差によって否決された。投票率は70%に達した。ヨーロッパ統合のリーダーを自任するフランスでEU憲法が国民に拒否された衝撃は大きかった。後に国民投票をひかえる各国にも影響して、6月1日に実施されたオランダの国民投票ではフランス以上の大差で否決された。その3日後にはイギリスが、06年前半に予定していた国民投票の凍結を発表。6月16~17日におこなわれたEU首脳会議は、06年11月としていたEU憲法発効の時期を無期延期することをきめた。 フランス国民の多数が投じた反対票は、拡大EUで雇用がうばわれる、英米流の競争原理に支配される、社会保障が削減される、といった生活にかかわる危機感や、痛みをともなう諸改革を強いる現政権への不満を反映したものと思われる。その背景には10%をこえる失業率をかかえたフランスの社会不安があり、雇用回復に失敗した首相ラファランは辞任した。シラクは、側近のドミニク・ドビルパンを後任首相に指名し、6月初めに新しい保保政権がスタートした。内相は、シラクの若きライバルとみられてきた与党党首サルコジである。ドビルパンは雇用創出を政府の最優先課題と位置づけ、「100日以内に国民の信頼を回復する」と公言。就任早々に「雇用のための緊急計画」を発表して行政命令のかたちで実行にうつしたが、試用期間の延長や採用・解雇手続きの簡略化などに労働組合が反発し、雇用の安定をうったえる大規模なデモやストライキが全国でおこった。
2005年10月27日、パリ郊外の移民地区で、警官の職務質問からのがれようと変電所ににげこんだ北アフリカ出身の少年2人が感電死した。この事件が発端となって、警察に反発する地元の移民系若者の暴動がはじまった。これに対して内相のサルコジは徹底的な取り締まりを主張。とくに、暴徒を「社会のクズ」とよんだことが移民系若者の怒りを買い、11月に入って暴動は一気に各地に飛び火する。暴力行為も、商店、学校、市役所などを火炎瓶で襲撃するまでにエスカレートしていった。もはや通常の手段では事態を収拾できないと判断した政府は、暴動頻発地に緊急事態法を適用して、非常事態宣言と16歳未満の少年少女に対し夜間外出禁止令を出す権限を県知事に付与することを決定。11月9日から、アミアン、オルレアン、リヨンなど、25県の約30市町村で次々に夜間外出禁止令が発令された。その後、各地の暴動は徐々に鎮静化し、緊急事態法の適用を06年2月まで延長することが議会で承認された16日には、ほぼ平常の状態に回復。緊急事態法は年明け早々に繰り上げ解除された。暴徒になぐられた市民1人が死亡したが、鎮圧による死者は出ていない。 3週間にわたりフランスをゆるがせた一連の暴動の中心となったのは、都市郊外の移民コミュニティにすむ若者たちだった。彼らの多くは、移民の2世、3世としてフランスで生まれそだったフランス人だが、移民系として差別され、就職難や貧困によって鬱積(うっせき)した社会への不満が暴動のかたちで連鎖的に噴出したとみられている。この暴動は、現代フランス社会における移民系住民の存在をクローズアップすることになった。ドビルパンは移民系若者の就職支援策などとともに移民の増加を規制する方針をうちだしているが、均質・平等を原則とする従来のフランス型社会モデル自体の見直しをせまる声もあがっている。
2006年3月、ドビルパン政府は雇用対策としてCPE(初回雇用契約)制度を中心とする機会均等法を議会で成立させた。このCPEは、26歳未満の若年層にかぎり、雇用契約をむすんでから2年以内は雇用者が自由に解雇できるとした制度で、いったん雇用契約をむすぶと解雇がむずかしい従来の雇用制度が雇用の硬直化をまねき、若年層の失業率を高める要因となっていることに対する反省から導入されたものだった。しかし、法律が成立するやいなや、学生を中心とする若年層の猛反発をまねき、フランス全土でデモやストライキが多発。あまりの反発の大きさに、政府はいったんは可決されたCPE関連法の導入を撤回。導入を推進したドビルパン首相の権威は失墜した。デモやストライキにはCPEの対象とはならない労働者や労働団体も多数参加していたとみられ、雇用問題をはじめとする、フランスの社会改革の難しさを露呈した。 さらにおいうちをかけるように、ドビルパンにとって不利な疑惑が発覚した。1991年に台湾に駆逐艦を売却した際、フランスの政治家や実業家へ不透明な資金の流れがあり、それらがルクセンブルクのクリアストリーム銀行の隠し口座にしはらわれていたという疑いがもちあがったのである。そして2004年6月に、この隠し口座の持ち主のリストが匿名の告発状といっしょに政府にとどけられ、リストの中にサルコジ財務相(当時)の名があったことから騒ぎが大きくなった。さらには告発状にしたがい、ドビルパン外相(当時)がシラク大統領の指示のもとにサルコジの近辺を捜査するよう命じた疑いがもたれた。ところが告発状は偽者であることが発覚し、この1件は、シラクとドビルパンがサルコジの追い落としをねらってしくんだものではないかと噂(うわさ)されるようになった。サルコジはドビルパンを告訴し、真実を明らかにするようにせまったが、シラクもドビルパンも、噂を否定した。 このクリアストリーム事件により、ドビルパンやシラクの信頼は大きくそこなわれ、2007年大統領選挙レースから完全に脱落した。しかし、ドビルパン政権が誕生した05年6月以降、経済は徐々にもちなおし、財政赤字、失業率ともに大きく改善された。
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