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フランス

フランス France
百科事典項目
マルチメディア
フランスの国旗・国歌フランスの国旗・国歌
項目構成
1 E

カロリング朝

教皇はピピン3世とその2人の息子に「ローマ人の保護者」の称号をあたえ、ピピン3世はローマ周辺の土地を教皇に寄進したが、これが教皇領の基礎となった。カロリング朝はピピン3世の子カール大帝(シャルルマーニュ)の時代に最盛期をむかえる。

カールの治世の大半は遠征についやされた。北は今日のドイツから、南はイタリア半島とイベリア半島の北部、東は今日のハンガリーまでを征服し、征服した土地を約250の地方にわけて、王の代理とラテン語の公文書を理解できる聖職者をおいて統治した。800年にカールは教皇からローマ皇帝の称号をあたえられ、西ヨーロッパにローマ帝国が復活した。けれども新しいローマ帝国は以前より北方に移動し、このたびはゲルマン人が支配者だった。

カール大帝の死後、王国は分解する。息子ルイ(ルートウィヒ1世)による皇位継承と、その息子たちによるたび重なる廃位の企て、そして息子たちどうしの争いをへて、最終的に王国はルイの3人の息子が分割して支配することになった。長兄のロタールは帝国の中心であるライン川沿いの土地とイタリア、そして皇帝の称号を、ほかの2人のうちルイ(ルートウィヒ2世)はライン川の東、シャルル1世(カール2世)はライン川の西をえた。シャルルの領土がほぼ今日のフランスにあたる。

各地に配置された伯は、土地の実力者として力をたくわえていった。すでに8世紀以前から、西ヨーロッパにはノルマン人がときおり襲来していた。カール大帝の子孫には、外敵から王国全体をまもる力はなく、略奪をおこなう異民族から住民を保護したのは、地域の実力者たちだった。彼らのもとで小国家(領邦)群が生まれていき、やがて、地域の支配者たちは無能な王を廃して、自分たちの指導者をえらんだ。これがカペー家のユーグである。カペー家はパリ周辺の実力者で、ノルマン人と勇敢にたたかって一目おかれた家系だった。ノルマン人は10世紀の初め、フランク王の臣下となり、セーヌ川の河口に定住した。この土地がのちのノルマンディである。

2

中世のフランス

2 A

カペー朝のフランス

987年、ユーグ・カペーが即位したときから固有のフランスの歴史がはじまる。すでに9世紀には、東フランクではゲルマン系の言葉が話されていたが、西フランクではゲルマンの影響をうけて変化したラテン語がつかわれた。これがフランス語の起源である。ただし、ローマ人がはやくからすみついていた南フランスでは、ゲルマンの影響は小さく、方言化したラテン語になっており、これは現在でもつかわれている。

ユーグが実際に支配していたのは、パリ周辺の自分の領地だけだったが、聖俗諸侯による選挙で王位をえ、しかもランス大司教の支持をえたことは、神の名においてフランス人を支配し保護する役割をあたえられたことを意味した。そして7代目のフィリップ2世のころになると、王は肩書を利用して、ほかの領主の土地を没収するようになり、王の領地はしだいに拡大していった。

2 B

王領の拡大

結婚も領地の拡大の手段だった。ルイ7世(在位1137~80)は、アキテーヌ公国とガスコーニュ公国とポワトゥ伯領を相続したエレオノール(アリエノール)と結婚した。2人の間に生まれる子供はこれらの領地を相続するはずだった。しかし、2人は離婚し、エレオノールはフランス北西部でノルマンディ公国アンジュー伯領を支配するアンリと再婚した。しかもアンリは、母がイングランド国王の娘だったので、1154年、イングランド国王ヘンリー2世となった。こうして、ヘンリーとエレオノールの間に生まれた子供は、イングランドとフランスにまたがる広大な領地の支配者となった。

カペー朝はこのような失敗もしたが、着実に領土を拡大し、統治の仕組みをととのえた。フィリップ2世(在位1180~1223)は、キリスト教の異端の撲滅を口実として、南フランスに領土を獲得し、その孫ルイ9世(在位1226~70)は行政機構を整備した。その孫フィリップ4世はローマ教皇との抗争に際して、聖職者と貴族、都市の代表者をあつめて、はじめて三部会を開催した。

2 C

都市と商業の発達

領土の拡大は王の野心を満足させるためだけのものではなかった。この時代は西ヨーロッパ全体が繁栄の時代をむかえて、商業や工業が盛んになり、遠隔地をむすぶ交易が発達した。商工業の中心地として都市が発達したのも、この時代である。

王の領土が拡大し、支配が確実になることは、経済活動が安全になることを意味した。したがって、国王が実力をもつことは、商工業者の願いでもあり、国王の軍事活動を都市の商工業者や金融業者が応援したのは、自分たちの繁栄にむすびついたからである。カペー朝の王たちは十字軍の活動に熱心に参加したが、これも、宗教的な感情とともに、臣民の商魂にささえられていた。商工業者や金融業者の富は、都市の教会建築にも利用された。教会は物騒な世相に生きる人々にとって、心の支えであった。

2 D

バロワ朝の時代

1328年、カペーの本家に男子の後継者がいなかったので、フィリップ4世の甥(おい)、バロワ家のフィリップが王位についた。以後1589年までの260年間に、一家から13人の王が即位する。カペー朝では340年間に14人の王が、またブルボン朝の場合には1589年からフランス革命までの200年を5人の王がになったのにくらべ、バロワ朝国王の統治期間の短さはこの時代の統治の難しさを意味した。バロワ朝時代のフランスは、イングランドとの間の百年戦争とイタリア戦争、国内では、ブルゴーニュ公家との争い、そして16世紀には宗教改革にともなうユグノー戦争(ユグノー)を経験した。またこの時代は黒死病の時代でもあった。

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