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1863年にムハンマドが死ぬと、後継者争いで国内は10年ほど混乱におちいった。彼の3男のシェール・アリが後継者となったが、78年に親ロシア政策をとったためにイギリスの反感を買い、第2次アフガン戦争(1878~79)が勃発(ぼっぱつ)した。79年10月にカブールが陥落すると、同年3月にシェール・アリの跡をついでいたヤクブ・カーンは失脚し、80年にムハンマドの孫のアブドゥル・ラフマーンが王位をついだ。
ラフマーンは、イギリスとヤクブ・カーンが以前にとりきめていたとおり、カイバー峠やそのほかのアフガン領土をイギリスに割譲した。ラフマーンの跡をついだ息子のハビブラ・カーンの在位中、1907年にイギリスとロシアはアフガニスタン領土の相互保全を約束する協定をむすんだ。第1次世界大戦後の19年、ハビブラ・カーンの息子のアマーヌッラーはイギリスに宣戦布告しインドに侵攻した(第3次アフガン戦争)。大戦に疲弊し、インドの反乱に手をやいていたイギリスは、同年8月にアフガニスタンと和平協定をむすび、外交権を回復するなどアフガニスタンを独立国家として承認した。
イギリスとの交渉でアマーヌッラーが獲得した人気は、すぐにおとろえた。イランとトルコの近代化に感銘したアマーヌッラーは、政治的、社会的、宗教的な近代化をはかったが、保守派はこれに反対し、1929年に反乱をおこしたため、彼は亡命した。アマーヌッラーの叔父のナーディル・シャーが、反乱軍をおさえ、同年王位についた。 新しい王は国内の秩序を回復し、1932年に経済改革に重点をおいた政策を開始したが、翌年暗殺された。王位をついだ前王の息子のザーヒル・シャーは、まだ19歳だったため、その後30年間にわたり、親族の操り人形にすぎなかった。政府は、ナーディル・シャーによってはじめられた近代化をひきつぎ、ドイツ、イタリア、日本と親密な通商関係をむすんだ。 1939年に第2次世界大戦がはじまると、ザーヒル・シャーは中立を宣言したが、41年にイギリスとソ連の要望で、200人以上におよぶドイツとイタリアの政府関係者を国外へ追放した。42年にアメリカと国交を樹立し、46年11月にアフガニスタンは国際連合(国連)に加盟した。
1947年にインドとパキスタンが独立すると、アフガン政府はパキスタンとの国境で、パシュトゥーン人が多くすむ北西辺境州がパキスタンに編入されることに不満を表明した。アフガニスタンは、北西辺境州の住民に自治の意思を問う国民投票を要求したが、パキスタンはこれを無視した。その結果、パシュトゥーン人はアフガニスタンとパキスタンの両国にわかれてすむことになった。 1947年にパキスタンが国連に加盟するとき、アフガニスタンは反対票をいれるなど、両国の関係はその後数年間にわたり緊張がつづいた。49年以降、アフガニスタン政府に支援された北西辺境州のパシュトゥーン人は、独立国を建国しようとしてパキスタン政府としばしば衝突した(パシュトゥニスタン問題)。 1954年のアメリカ・パキスタン軍事援助協定に不満をもったアフガニスタン政府は、ソ連寄りの姿勢をとるようになった。50年代後半になると、パキスタンとの関係もかなり改善されたが、61年にパシュトゥニスタン問題が激化したため、67年になるまで完全に修復されることはなかった。
1963年にザーヒル国王は、53年以来首相をつとめてきたいとこのムハンマド・ダーウドを更迭(こうてつ)し、独裁政権をうちたてた。翌年彼は新憲法を公布し、政治に自由な風をふきこみ、65年9月に最初の国会議員選挙をおこなった。60年代後期には深刻な経済危機にみまわれ、3年間の干ばつで約8万人が死亡したとされている。73年までソ連、アメリカ、中国は援助物資をおくった。
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