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新石器時代から20世紀にいたる中国の美術と建築の進歩は、連綿とつづいた文明の足跡をみせてくれる。中国美術は、伝統と革新、中華思想と外来思想、そして宗教と世俗といった対立概念の微妙な調和の上に成立している。
中国の皇帝は太古から美術の保護者であった。美術制作や建築にたずさわる人々は宮廷に所属していた。いっぽう、宮廷からの制約をうけない士大夫や文人といった素人画家もいた。彼らの作品は個性豊かで、宮廷画家の様式とはことなっている。皇帝の権力の消長が、中国美術の進路と大きくかかわっていた。王朝によってその文化的な傾向はさまざまであったが、おおむね前代の伝統が重んじられた。とくに新しい王朝をひらいた初代の皇帝にとって、王権の正当性を主張するためにも、前代の美術や建築の様式をうけつぐことが必要であった。インドや中央アジアからの外来文化が宮廷にとりこまれることもあったが、そのような新種の美術、宗教、哲学は徐々に中国社会と同化していった。 中国の最初の王朝である殷(いん)から漢にかけての美術、とくに青銅器は葬送儀礼と関係が深い。死後の世界での安楽をえるために、王やその一族は巨大な墳墓をつくった。墳墓は地下につくられたので保存状態もよく、あの世で使用されるための複雑な形をした青銅器や武器、玉器、陶器などが棺(ひつぎ)のかたわらにならべられていた。墓室の壁面は線刻や絵画で装飾され、神話や日常生活のようすがえがかれている。1950年ごろから盛んに発掘調査がおこなわれ、太古の財宝が世界にひろく紹介されるようになった。 220年に漢がほろびたあとの数世紀にわたる乱世の時代に、外国との交流は活発になり、中国美術の性格もかわっていった。4世紀ごろにインドから伝来した仏教は新しい建築、彫刻、絵画の様式をつたえ、また霊魂は死を超越すると説く教義が、埋葬を簡素化させた。7世紀に唐が中国を統一したときには、中国美術はますます国際的になっていった。宮殿建築は空前の壮麗さをほこり、山水画や肖像画が流行した。陶芸技術も発展して唐代のすばらしい磁器の登場をみちびいた。 唐につづく王朝もその成果を発展させた。山水画は、文人とよばれる知識階級の素人画家たちにとって、美術のみならず哲学の表現として重視された。宮廷では花鳥画、禽獣(きんじゅう)画、嬰戯(えいぎ)画が王室のために大量に制作された。書道は士大夫の教養として重要視された。陶芸も技術的、美術的により高度となった。王室や富裕階級は漆器、錦、象牙、ヒスイ、金銀でその邸宅をかざった。いまも北京には、明清時代にたてられたぜいたくな建物が数多くのこされている。 中国美術の担い手たちは高い水準の技をもち、組織だった工房に所属していた。用具や技法に関する知識は、いく世代にもわたって一族の間に伝承されていった。彼らがつかう道具は単純なものだったが、織機や窯(かま)、鋳造の機構は、彼らが複雑な制作過程をよく理解していたことをしめしている。新石器時代の黒陶や殷の青銅器は、これら初期の作者たちが技術的に熟達していたことを証明してくれる。
前17世紀頃~前11世紀半ば 新石器時代(前4000頃~前2000頃)につづく殷の文明は中国史上、画期的な時期である。新石器時代にはじまった農業と牧畜は都市国家を成立させた。彼らは土葬の際に副葬品をおさめたが、とくにさまざまな形態の彩陶や黒陶の壺(つぼ)、ヒスイや玉器が発掘されている。金属器も知っていたようであるが明確な証拠はまだ発見されていない。 殷は河南省を本拠とし、前13世紀に安陽に都をおいたときを境にして前期と後期にわけられる。前期には多くの都市国家が成立し、この時代の主要な工芸品である陶器や玉器、青銅器が墳墓の中から発見されている。肉や酒をいれる祭器としてとくに重要視された青銅器は、表面が複雑な文様で装飾され、急速に鋳造技術が発展したことをしめしている。 殷の後期の都となった安陽からは大量の甲骨文(こうこつぶん)や青銅器が発掘され、殷の支配者たちが死後の世界に深い関心をもっていたことを明らかにしている。青銅器は饕餮(とうてつ)とよばれる怪獣や鳳凰(ほうおう)の文様でおおわれ、祖先崇拝の儀式の際に供物や神酒をいれて祭壇にささげられた。 殷の王たちは巨大な墳墓も造営した。この世の財物をあの世にたずさえていけると信じられていたので、王の一族は彼らの財産とともに埋葬された。1975年に中国考古隊は安陽で殷の王妃の墳墓を発見し、400以上の青銅器や武器、600以上のヒスイや玉器を発掘した。これらの工芸品、なかでも動物や鳥をかたどったヒスイや青銅製の装飾品は、最初期の中国固有の美術が高度なものであったことを証明している。
前1050?~前256 殷の西方で勢力をのばした周は、前11世紀半ばに安陽をおそい、新しい王朝をひらいた。西安に都のおかれた時代を西周といい、青銅器や玉器などは殷の工芸をうけついだ。祖先崇拝の制度は崩壊し、祭礼用の青銅器は王から諸侯への贈り物となった。つまり戦争や土地の贈与の記念品として鋳造されるようになり、それをしるした長い銘文がきざまれた。それらの銘文は古代中国の歴史をしるした記録としても重要である。 前771年に周は都を西安から洛陽にうつした。これ以後を東周という。地理的に殷の故地をはなれたことは、東周の美術に反映された。青銅器はますます世俗的になり、饕餮や呪術的な動物にかわって幾何学的な文様が主流となって、金や色石で表面に象嵌がほどこされた。銅鼓や銅鏡はこの時代によくみられる。東周時代の墳墓からは絹にえがかれた絵画や、漆器、木彫、灰釉(ゆう)陶などが発見され、その後の中国美術の多様性をすでにみせている。
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