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  • 冷戦 - Wikipedia

    冷戦 (れいせん、 冷たい戦争 = Cold War )は、 第二次世界大戦 後の世界を二分した、 ソビエト連邦 を盟主とする 共産主義 ( 社会主義 )陣営と アメリカ合衆国 を盟主とする 資本主義 ( 自由主義 )陣営の対立構造。 1945年 から 1989年 まで続き、直接武力 ...

  • ポスト冷戦研究会ホームページ

    ポスト冷戦期の資本主義世界経済にかんする専門研究者による研究報告と会合記録。

  • 2 東西対立と冷戦

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冷戦

冷戦 れいせん Cold War
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

第2次世界大戦が終結した1945年以降、アメリカとソ連が、それぞれの同盟国をひきいて対立した状態をいう。2つの超大国の間に直接的な軍事衝突はなかったが、ことなるイデオロギーの対立が深まる中、経済的・外交的にはげしい摩擦が生じ、お互いに不信と敵意を増大させた。

II

背景

アメリカと帝政ロシアは1世紀にわたって友好関係を維持してきたが、1890年代にはいるとアジア問題をめぐって対立しはじめた。そして、1917年に社会主義ソビエト連邦が樹立され、西側の資本主義諸国にイデオロギー的な宣戦布告をしたのを機に敵対関係は深まった。アメリカは18~20年に、1万の兵をソ連におくって介入し、33年まで国家としてのソ連の承認を拒否しつづけた。

第2次世界大戦ではナチス・ドイツを共通の敵としてともにたたかったが、この協力関係も1944~45年に崩壊しはじめた。ソ連の指導者スターリンが、ソ連の安全保障のために、赤軍を東ヨーロッパに派遣して支配下におさめたからである。アメリカ大統領トルーマンはスターリンの政策に異をとなえ、自国の主導権のもとでヨーロッパ統一にのりだした。両陣営の不信感はつのり、大戦中の協定は破棄された。スターリンは東ヨーロッパで自由選挙を実施するという言質を反古(ほご)にし、トルーマンは敗戦国ドイツから賠償金をとって、戦争で国土が荒廃したソ連の再建をたすけるとの約束を無視した。

III

両陣営の応酬

イランとトルコへのソ連の影響を警戒したアメリカは、1946年の、両体制間の戦争はさけられないとのスターリンの演説を、西側に対するイデオロギー上の宣戦布告だと解釈した。翌47年に、アメリカはトルーマン・ドクトリンを発表したが、これには2つの目的があった。ひとつはアメリカがギリシャとトルコの反共産主義勢力を支援すること、もうひとつは冷戦をたたかうための国民全体の同意をえることだった。同年、アメリカのジャーナリスト、リップマンが「冷戦」を出版し、この言葉が一般化した。

アメリカ議会では、親共産主義活動をあぶりだすための、悪名高い尋問がくりかえしおこなわれた。この反共の嵐は、赤狩りの先頭にたっていたマッカーシー上院議員の名をとって、「マッカーシズム」あるいは「マッカーシー旋風」とよばれている。

1947年、アメリカは西ヨーロッパと中央ヨーロッパの再建策として、130億ドル規模のマーシャル・プランを発表した。スターリンはこれに対抗して東ヨーロッパに対する支配を強化し、ドイツでの西側陣営の立場をおびやかし、トルーマンは軍事同盟(NATO北大西洋条約機構)の成立と西ドイツの独立に力をそそいだ。

冷戦は、ソ連の原爆所有が明らかとなり、中国共産党が中国本土を手中におさめた1949~50年にいっそう拡大した。中国共産党はスターリンと同盟をむすんだが、アメリカはこの新国家を承認しなかった。いっぽう、アメリカの支配下にあった日本では、急速に経済が発展した。50年に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が大韓民国(韓国)に侵攻すると、トルーマンはアメリカ軍を朝鮮半島におくりこんだ(朝鮮戦争)。この紛争は3年で終わりをつげ、協定によって戦争前の国境線が維持されることになった。

1953年にスターリンが死去し、トルーマンは大統領の座をさったが、両陣営の対立はヨーロッパを舞台としてさらにつづいた。ソ連は社会主義国家である東ドイツの人口流出をくいとめるため、61年にベルリンの壁をきずいた。当時、アジア、アフリカ、中東、ラテンアメリカでは、新しい独立国が次々と出現していたが、2つの超大国はそれらの国を支配下におこうとやっきになった。対立が最高潮に達したのは、ソ連が新しい社会主義国キューバにミサイルを配備した62年だった。アメリカのケネディ大統領が核爆弾による報復を示唆したため、ソ連は、アメリカがキューバに進出しないという約束をとりつけてミサイルを撤去した。

このキューバ危機で勢いをそがれたソ連は、中国の離反や東ヨーロッパ諸国の社会不安などでしだいに弱体化し、それとともに共産主義諸国ではナショナリズムが共産主義をしのぎだした。いっぽう、アメリカはベトナム戦争にかかわり、多くの兵士をうしなったにもかかわらず、南ベトナムをまもりきることができなかった。さらに、戦後のアメリカ経済の優位も、日本や西ドイツがおびやかしはじめていた。

足元のあやうくなった2つの超大国は、1973年までには、デタント(緊張緩和)の方針をとることで合意に達した。これは費用のかかる軍拡競争をてびかえ、第三世界での競争をゆるめるための措置だった。しかし、そのデタントも、79年末にソ連軍が社会主義体制をまもるためにおこなったアフガニスタン侵攻で崩壊した。そして、80年に大統領選挙にかったレーガンは積極的な軍備拡大政策をおしすすめ、ソ連寄り勢力の新興国に新たな脅威をあたえた。

IV

冷戦の終結

1985年、新世代のソ連指導者を代表するゴルバチョフが政権の座についた。ゴルバチョフとレーガンは、ヨーロッパにおける超大国の関与をへらし、イデオロギーの対立を緩和することに同意した。さらに、ソ連軍がアフガニスタンから撤退したことで、緊張緩和がすすみ、89年12月にゴルバチョフとブッシュ米大統領は、マルタ会談で冷戦の終わりを宣言した。

その後、東ヨーロッパ諸国が非社会主義政府を選択、東西ドイツが統一され、ソ連邦は消滅、冷戦は終結した。アメリカ大統領ブッシュは、世界を二分し、冷戦に拍車をかけていた超大国の対立にかわる「新しい世界秩序」の必要性をよびかけた。

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