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アリストテレスの理論は、実践にたずさわっていた職工たち、とくに、前300年以後古代世界の知的文化の中心となった、エジプトのアレクサンドリアの職工たちにうけいれられた。彼らは、土の中の金属は、より完全なものになろうとして、徐々に変化し、最終的には金になるものと考えた。 彼らは、これと同じ過程を仕事場で人工的により急速におこなえば、ありふれた金属を金にかえることができると、考えた。100年ごろには、この考えは、金属工だけでなく哲学者の心をもとらえ、この変質の方法について多くの著作が書かれた。そしてこの変化の術は、錬金術といわれるようになった。だれも金をつくりだすことには成功しなかったが、金属をより完全なものにしようとする研究の中で、多くの化学反応が発見された。 ほぼこれと同じころ、おそらくはこれとは独立に、中国にも似たような錬金術が出現した。中国の錬金術の目的もやはり金をつくりだすことであったが、しかしそれは、金の金銭的な価値のためではなかった。中国人たちにとって金は、これを飲む人の寿命をのばし、あるいは不死をもたらしてくれる薬であった。エジプト人と同じように、中国人もまたまちがった理論から実践的な化学知識を獲得したのである。
ローマ帝国の衰退後、ギリシャの著作は、西ヨーロッパでは公然と研究されることは少なくなり、東地中海地域でさえも、ほとんど無視された。しかし6世紀になると、ネストリウス派というシリア語をつかうキリスト教の一派が、小アジア地域全体に影響力をもつようになった。彼らは、メソポタミアのエデッサに大学を設立し、ギリシャの哲学や医学に関する多くの著作をシリア語に翻訳し、学者の間で利用された。 7世紀および8世紀には、アラビアの征服者たちが、小アジア、北アフリカ、スペインの多くの地域にイスラム文化を普及させた。バグダッドのカリフたちは、科学や学問の積極的な後援者となった。シリア語に翻訳されたギリシャの著作が、ふたたびアラビア語に翻訳された。こうして、ギリシャの学問が紹介されるようになると、錬金術の思想や実践がふたたび盛んになった。→ アラビア科学
アラビアの錬金術師たちは、東の中国とも接触し、完全な金属としてのギリシャの金の概念とともに、医薬としての金の概念をもうけいれた。特別の試薬である「賢者の石」が変化を促進すると考えられ、これをみつけだすことが錬金術師たちの目的となった。 富だけでなく健康をも手にいれることができるかもしれないということで、錬金術師たちの化学過程についての研究意欲は、さらに刺激されることになった。錬金術師が活動した結果、化学薬品や化学装置の研究は、着実に進展した。苛性アルカリ(→ アルカリ金属)やアンモニウム塩(→ アンモニア)などの重要な薬品が発見され、蒸留の装置が着実に進歩した。より定量的な方法が必要だということの認識も、いくつかのアラビア語の処方箋(しょほうせん)にあらわれており、そこには、使用すべき薬品の量についての特別な指示があたえられていた。
大きな知的復興が11世紀の西ヨーロッパではじまった。これは、ひとつにはシチリアおよびスペインにおけるアラビアの学者と西洋の学者との文化交流によって、刺激されたものであった。翻訳者のための学校が設立され、彼らの翻訳によってアラビアの哲学・科学思想がヨーロッパの学者にもたらされた。シリア語およびアラビア語を経由してつたえられたギリシャ化学の知識が、こうしてラテン語でヨーロッパの全域にひろめられていったのである。もっとも熱心によまれた写本は、錬金術に関するものであった。
これらの写本には2つのタイプがある。そのひとつは、ほとんど純粋に実践に関するもので、もうひとつは、物質の性質に関する理論を錬金術の問題に応用しようとするものである。実践的な問題としてもっとも議論されたのは蒸留であった。 ガラスの製法が、ベネツィアを中心にひじょうに発展したことで、アラビア人たちよりもすぐれた蒸留装置ができるようになり、これをつかってより揮発性の高い蒸留生成物を濃縮できるようになった。このようにしてえられた重要な生成物には、アルコールや、硝酸、王水、硫酸、塩酸などの鉱酸がある。これらの強力な薬品をつかって、多くの新しい反応をおこさせることが可能となった。 中国での硝酸塩の発見や火薬の製造もアラビア人を通じてヨーロッパにつたえられた。はじめ中国人は、火薬を花火に使用していたが、ヨーロッパでは、たちまち戦争の主要手段となった。 アラビア人によってつたえられた2番目のタイプの錬金術の写本は、理論に関するものであった。これらの著作の多くは、神秘的な性質をもったもので、化学の発展にはほとんど寄与していないが、中には、変化を自然科学的なことばで説明しようとしたものもあった。 アラビア人の物質理論はアリストテレスの考えにもとづいていたが、より特殊化されたものであった。このことは、とくに金属の組成に関する彼らの考え方に顕著にあらわれている。彼らは、金属は硫黄と水銀でできていると信じていた。ただしこの2つの要素は、彼らがよく知っている物質としての硫黄や水銀ではなく、金属に流動性をあたえる水銀の「原理」と、物質を燃焼させまた金属を腐食させる硫黄の「原理」であった。化学反応は、物質にふくまれるこれらの原理の量の変化として説明された。
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