![]() |
Windows Live® の検索結果
Windows Live® の検索結果 ページ 3 / 8
項目構成
13世紀から14世紀にかけて、あらゆる分野の科学思想に対するアリストテレスの影響力が弱くなった。物質のふるまいを実際に観察することによって、アリストテレスの比較的単純な説明に疑問がなげかけられた。このような疑問は、1450年ごろ活字による印刷術が発明されてから急速にひろがった。1500年以降、技術に関する著作と同様、印刷による錬金術の著作の数がますます増大した。この増大した知識の成果は、16世紀にはっきりとあらわれる。
この時代にあらわれた書物で大きな影響力をもっていたのが、採鉱および冶金の実践書であった。これらの著作では、有用金属の含有量をしらべるための鉱石の試金(→ 分析試験)に多くのページがあたえられた。この作業には、天秤(てんびん)の利用と、定量的な方法を開発することが必要であった(→ 化学分析)。他の分野、とくに医学の研究者たちは、より高度な精密さの必要性に気づきはじめていた。医師(彼らのうちのある者は錬金術師でもあった)は、投与する薬の正確な重量や体積を知る必要があった。彼らは薬を調合する際に天秤をつかった計量法を利用したのである。
この方法は、風変わりなスイス生まれの医師ホーエンハイム(→ パラケルスス)によって開拓され、精力的にひろめられた。彼は鉱山地域にそだち、金属とその化合物の性質についての知識を修得し、これらの物質が、当時の医師たちが利用していた薬草よりもすぐれていると信じた。彼はその人生の大半を、当時の医学の権威たちとのはげしい闘いについやし、その過程で、薬理学のさきがけとしての医化学の基礎をきずいた。彼とその後継者たちは、多くの新しい化合物や化学反応を発見した。 彼は、金属の組成についての従来の「硫黄-水銀説」を修正し、第3の成分として、すべての物質の基礎となる要素である「塩」をくわえた。木がもえるとき「もえるのは硫黄であり、気化するのは水銀であり、灰になるのは塩である」ととなえた。「硫黄-水銀説」についていえば、これらは「原理」であり物質ではなかった。 彼の可燃性硫黄についての主張は、のちの化学の発展にとって重要なものであった。パラケルススの跡をついだ医化学者たちは、彼のあらけずりな考えのいくつかを修正し、彼および彼らの化学治療薬の調合に関する処方を集大成した。そして16世紀末にアンドレアス・リバビウスが「アルケミア」を出版した。これは、医化学の知識を体系化したもので、最初の化学教科書であるとされている。
17世紀の前半には、わずかな人々が、化学反応の実験的研究をはじめたが、これは、化学反応がほかの分野の役にたつということからではなく、あくまでも自分たちのためにおこなったものであった。化学の研究に専念するために医師としての実践活動から身をひいたジャン・バプティスタ・ファン・ヘルモントは、ある一定の量の砂を過剰のアルカリとともに融解すると水ガラスが生成され、この水ガラスを酸で処理すると、もとと同じ量の砂(二酸化ケイ素)が生じることをしめすための重要な実験をおこない、そのときに天秤を使用した。こうして質量保存の法則の基礎がきずかれたのである。 ヘルモントはまた、多くの反応で空気のような流体が放出されることをしめし、これを気体と名づけた。特有の物理的性質をそなえた、新たな種類に属する物質が存在することがしめされたのである。
アリストテレスによって存在しえないとされていた真空をつくりだす方法が、16世紀に実験科学者たちによって発見された。これは、原子が「空虚」の中を運動すると仮定したデモクリトスの古代理論への関心をよびおこした。 フランスの哲学者であり数学者であったルネ・デカルトとその弟子たちは、観測される現象は微粒子の大きさ、形、および運動によって、すべて説明されるとする機械的物質観を発展させた。この時代の自然哲学者や医化学者のほとんどは、気体は化学的性質をもたないと考えていたので、彼らの関心は気体の物理的ふるまいに集中した。 ここに気体分子運動論の発展がはじまった。この分野で特筆されるのが、「空気の弾性」を研究し、気体の圧力と体積との間の反比例の関係を一般化して、のちにボイルの法則として知られるようになる式をみちびきだしたイギリスの物理学者で化学者のロバート・ボイルの実験であった(→ 気体)。
|
© 2008 Microsoft
![]() ![]() |