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    「我に自由を与えよ。しからずんば、死を。自由は鮮血をもって買わざるべからず」 アメリカ独立運動の闘士 パトリック・ヘンリ (1736~1799) の この言葉は、日本の明治初期の 自由民権運動 家のスローガンともなった。

  • 1 アメリカ独立革命

    1 イギリスの植民地政策 イギリスは、17世紀初頭、北アメリカ東岸に最初の永続的な植民地であるヴァージニア植民地を建設し(1607)、18世紀前半までに13の植民地を設立した。イギリスの13植民地は、信仰の自由や政治的な自由を求めて新大陸に移住した ...

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    3 合衆国憲法の制定 アメリカ合衆国は、1783年のパリ条約で独立を達成したものの、13の独立した州のゆるやかな連合国家にすぎなかった。

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アメリカ独立革命

アメリカ独立革命 アメリカどくりつかくめい American Revolution
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

18世紀後半におこった、アメリカ東部沿岸のイギリス領13植民地と本国イギリスとの、独立をめぐる一連の紛争。のちにフランスが独立諸植民地と同盟して参戦、戦争は植民地側が共和制国家アメリカ合衆国を設立し決着した。アメリカ独立戦争ともいう。

II

革命の原因と印紙税法

北アメリカで1754年にはじまったフレンチ・インディアン戦争がヨーロッパに飛び火して七年戦争(1756~63)となったが、その結果、イギリスは北アメリカからフランス勢力を一掃、西半球での覇権および海上権を確立し、貿易で繁栄した。しかし、七年戦争中も植民地の商人は敵国フランスと交易や密輸をつづけ、議会は兵員や軍需品を本国イギリスに供給するのを何度も拒否した。しかも戦争の結果、イギリスには多大な債務と、北アメリカの新領地統治の負担がのしかかってきた。航海法を厳格に執行し、諸植民地人にも帝国防衛に応分の負担をさせるべく、イギリス議会は65年3月、印紙税法を制定。植民地人はすべての公文書、抵当証書、新聞などに印紙をはり、違反者は陪審のない海事裁判所で訴追されることになった。その歳入は、植民地人とアメリカ先住民諸部族との衝突を防止するためにイギリスが駐留させている兵1万人を維持する費用としてつかわれることになっていた。

アメリカ植民地人は本国と統治権をわけもつ連合帝国論を信奉し、植民地議会は設立当初から本国議会を手本にしており、課税や軍の編成、裁判の監督などを立法化した。本国は事実上、外交および先住民、郵便局だけを管轄していた。それゆえ、国内立法たる印紙税法は「代表なければ課税なし」というイギリス臣民の権利を侵害しており、植民地議会の独立をそこない、自由をうばう陰謀の一歩であるとうけとめた。

印紙税法へのはげしい抵抗がおこり、反英組織「自由の息子」は暴動で本国任命の印紙販売官が職務につけないようにした。植民地議会は同法非難を決議、本国議会に廃止をもとめた。アメリカの商人は非輸入協定をむすび、イギリス製品不買をよびかけ、イギリスとの通商は停滞してしまった。1765年10月には、9植民地代表がニューヨークで印紙税法会議をひらき、本国議会と国王に請願をおこなった。本国議会は翌66年3月、同法を廃止するが、植民地側の憲法上の反対論をみとめたわけではなく、イギリス製品不買運動で打撃をうけた本国商人の圧力によるものであった。

1

タウンゼンド諸法

イギリス議会は1767年、蔵相タウンゼンドの指導のもと、タウンゼンド諸法を成立させ、アメリカへ輸出する鉛・ガラス・茶・ペンキ・紙などに課税した。航海法の厳格な執行にあたるアメリカ関税局の創設も決定、局員は本国が任命、新関税の歳入から給与をうけ、植民地議会の統制をはなれたため、植民地の自主性がいっそうあやうくなった。

植民地人はふたたびはげしい抗議をおこなった。フィラデルフィアの法律家ディッキンソンはアメリカを奴隷化しようとする陰謀だと警告した。マサチューセッツ議会は植民地に回状を送付してタウンゼンド諸法を非難、一致した抵抗をよびかけた。ほかの植民地議会もついに回状に署名し、本国介入に反発した。しかし関税局は徴税をつづけ、船舶を拿捕(だほ)して反感を買った。1768年、税関吏がボストン商人ハンコックのリバティ号を拿捕したところ、ボストンでは数千人が暴動をおこし、税関長をおどして町からおいだした。その報が本国にとどくと、4個連隊4000の正規兵がボストンに派遣された。不穏な情勢の中で70年3月、市民とイギリス兵との間に戦闘がおこり、兵の発砲で市民5人が殺害され(ボストン虐殺事件)、植民地の反英感情はますますつのっていった。

イギリス議会は1770年、タウンゼンド諸法は撤廃したものの、茶税だけをのこした。イギリス東インド会社の破産救済のため、議会は73年、新たに茶税法を制定し、関税をひきさげ、同社の茶をアメリカでやすく売れるようにした。植民地人はイギリス茶の購入を拒否し、港で茶の陸揚げを阻止した。ボストンではアメリカ先住民に変装した市民がイギリス船の茶を海中になげすてた、ボストン茶会事件もおこった。

2

新たな強制諸法

1774年、一連の反英闘争にイギリス議会は制裁的な強制諸法を制定する。それらは植民地人にたえがたい諸法とよばれ、マサチューセッツをおいつめ本国議会の主権をみせつけるものだった。ボストン港法は、東インド会社の茶の損害をボストン市民が賠償するまで港を閉鎖した。マサチューセッツ統治法は植民地特許状を改変、参議会議員を国王の任命にしてタウンミーティングの開催を年に1度にし、役職者を選出するだけに限定した。公正司法執行法は、マサチューセッツで死刑相当の罪で訴追されたイギリスの官吏や兵士の裁判を、敵意をもつ現地の陪審が関与しない本国でおこなうとした。このような強制諸法をきびしく実施するために、本国議会はマサチューセッツ総督に北米イギリス陸軍司令官ゲージ中将を任命した。植民地人の多くは強制諸法を自分たちのイギリス臣民としての権利を否定し、植民地議会を破壊し、本国が軍事的・政治的権力をうちたてようとしているとみなした。

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