関連項目
検索
エンカルタ内で検索 : 第1次世界大戦

Windows Live® の検索結果

  • 第一次世界大戦 - Wikipedia

    第一次世界大戦 (だいいちじせかいたいせん、英語:World War I)は、 1914年 から 1918年 にかけて戦われた人類史上最初の 世界大戦 である。 ヨーロッパ が主戦場となったが、戦闘は アフリカ 、 中東 、 東アジア 、 太平洋 、 大西洋 、 インド洋 にもおよび ...

  • 第1次大戦

    開戦前後から終結・戦後までの主な戦闘と出来事、資料・人名録などを、主に軍事的な視点から紹介。

  • 第1次世界大戦 - MSN エンカルタ 百科事典 ダイジェスト

    エンカルタ内で検索 : 第1次世界大戦 Windows Live® の検索結果 第一次世界大戦 - Wikipedia 第一次世界大戦 (だいいちじせかいたいせん、英語:World War I)は、 1914年 ...

すべての検索結果 :
Windows Live® の検索結果

第1次世界大戦

第1次世界大戦 だいいちじせかいたいせん World War I
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

1914~18年に、32カ国が2大陣営にわかれてたたかった、人類史上初の世界大戦。イギリス、フランス、ロシアの三国協商を中心とする28カ国は連合国陣営を結成し、ドイツ、オーストリア・ハンガリー二重帝国、オスマン帝国(トルコ)、ブルガリアからなる同盟国陣営と対決した。主戦場はヨーロッパ大陸だったが、大西洋、太平洋、中東、アフリカでも戦闘はくりひろげられた。

II

戦争の原因

戦争の原因には、19世紀末~20世紀初め、ヨーロッパ諸大国が三国協商(イギリス、フランス、ロシア)と三国同盟(ドイツ、オーストリア・ハンガリー、イタリア)の敵対する2大陣営に分裂し、この2大陣営間で植民地獲得をめぐる対立がおき、イギリス、ドイツ間の建艦競争に代表される軍備拡張競争が激化したこと、オスマン帝国の衰退にともなってパン・ゲルマン主義パン・スラブ主義とのはげしい民族主義的対立がバルカン半島を舞台に出現し、それぞれの盟主であるドイツとロシアの衝突による2大陣営間の大紛争が生じる危険が高まっていたこと、などがあげられる。

軍縮と戦争回避の目的で1899年と1907年の2回にわたりオランダのハーグで開かれた国際平和会議(ハーグ平和会議)も、国益を優先する大国のエゴイズムを抑止することができず、国際対立の解消に役だたなかった。

III

大戦にいたる国際危機

1905~14年に、数回の国際危機と2度の局地戦争がおきたが、そのどれもがヨーロッパ戦争の危険を高めていった。最初の危機は北アフリカのモロッコでの権益をめぐりドイツとフランスがあらそった05年のタンジール事件(第1次モロッコ事件)である。翌年、事件解決のためスペインのアルヘシラスで国際会議が開かれ、フランスはイギリスに支援されてモロッコでの優先権をみとめられ、ドイツの野望は阻止された。

第2の危機は1908年にオーストリア・ハンガリーがスラブ民族の居住地でオスマン帝国の支配下にあったボスニア、ヘルツェゴビナ両州を併合したことから生じた。この併合は、大セルビア主義をかかげてボスニア南部の領有をめざすスラブ民族の新興国家セルビアの怒りをひきおこした。両国の戦争の危機は日露戦争後の国内混乱にくるしむパン・スラブ主義の盟主ロシアがセルビア支援をひかえたため、ひとまず回避された。

第3の危機は1911年のアガディール事件(第2次モロッコ事件)である。モロッコでの権益をめぐってドイツとフランスがふたたび対立したこの危機も、フランス優位のうちに解決された。この結果、ドイツは国際的に孤立し、状況打開のためにオーストリア・ハンガリーとの関係強化をいっそうもとめるようになった。

三国同盟の加盟国イタリアは、大国がモロッコ問題に忙殺されている間に北アフリカのトリポリを併合するため、1911年にオスマン帝国と開戦した。ドイツは東方進出(3B政策)のためにオスマン帝国との友好を必要としたので、イタリアの行動は三国同盟の利害に反するものとなった。イタリアはさらに南ティロルやトリエステの帰属をめぐってオーストリア・ハンガリーと利害対立をかかえており、大戦勃発(ぼっぱつ)後の15年5月23日にオーストリア・ハンガリーに宣戦布告して三国同盟を離脱、連合国陣営にくわわることになる。

1912~13年の2度にわたるバルカン戦争は、セルビアの勢力拡大と威信高揚をもたらし、バルカンでのオーストリア・ハンガリーとセルビアとの対立は激化した。この戦争でやぶれたオスマン帝国、ブルガリアはドイツへの依存を強めた。こうしてバルカンは「ヨーロッパの火薬庫」となった。

IV

サラエボ事件と大戦の勃発

国際緊張が高まるなか、1914年6月28日にボスニアの首都サラエボでセルビア人青年プリンツィプがオーストリア・ハンガリー帝位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺するという、いわゆるサラエボ事件が突発した。オーストリア・ハンガリー政府は事件をセルビアの陰謀と断定し、自国をおびやかすセルビアをうちたおす決意をかため、ヨーロッパ戦争の危険が急浮上した。オーストリア・ハンガリーのセルビア攻撃はセルビアを支援するロシアの介入を、ロシアの介入はドイツのオーストリア・ハンガリー支援をまねき、その結果、ヨーロッパ諸国は2大陣営にわかれて対決する恐れが現実のものとなった。

1914年7月5日、ドイツはオーストリア・ハンガリーに無条件支持を約束し、勢いをえたオーストリア・ハンガリーは7月23日にとうていうけいれられない内容の最後通牒(つうちょう)を48時間の期限つきでセルビアに発した。ロシアはセルビアが攻撃されればオーストリア・ハンガリーに対して軍を動員することを通告し、破局は眼前にせまった。7月26日、イギリス外相グレーは、イギリス、ロシア、フランス、ドイツ、イタリアの5カ国大使会談による危機回避を提案したが、ドイツは拒否した。

1914年7月28日、オーストリア・ハンガリーはセルビアに宣戦を布告、両国は開戦した。ロシアは7月31日に軍を総動員し、フランスもドイツに対する開戦準備をととのえた。一方、ドイツは8月1日にロシアに対して、8月3日にフランスに対して宣戦布告した。態度を保留していたイギリスもドイツのヨーロッパでの覇権奪取を警戒し、8月3日にドイツがフランス攻撃のためにベルギーの中立を侵犯したことを口実として、翌日ドイツに宣戦布告した。こうして、大半のヨーロッパ大国が大戦に突入した。

さらに、1914年8月23日に日英同盟を口実として日本が参戦、中国山東省のドイツ植民地を攻撃した。10月29日にはオスマン帝国艦隊がドイツ海軍とともに黒海沿岸のロシアの海軍基地を攻撃したため、オスマン帝国政府の陳謝にもかかわらず、11月2日ロシアが、11月5日イギリスとフランスがオスマン帝国に宣戦布告した。

前のページ
| | |
次のページ
項目内で検索
項目全体を印刷
項目の URL をメールで送る




© 2009 Microsoft