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項目構成
プロローグ; 戦争の原因; 大戦にいたる国際危機; サラエボ事件と大戦の勃発; 地上戦; ベルダンとソンムでの攻防; バルカンでの戦い; 中東での戦い; 海上戦; 空中戦; アフリカと太平洋地域での戦い; 戦時の国民生活; アメリカの参戦とロシアの戦争離脱; 大戦の終結; 大戦の総括
ヨーロッパでの戦闘は、西部(フランス、ベルギー)、東部(ロシア)、南部(セルビア)の3つの主要戦線で展開された。
西部戦線でのドイツ軍の作戦大綱は、1891~1906年に陸軍参謀総長だったシュリーフェンが起草したシュリーフェン計画にもとづいていた。これはフランスおよびロシアに対する二正面作戦を想定したもので、予想されるロシア軍の緩慢な動員と戦線への到着の遅れを計算にいれ、ドイツ陸軍はまず西部戦線に主力を結集して約6週間でフランス軍を打倒し、その後に東部戦線にひきかえしてロシア軍を撃破するというものだった。 したがって、ドイツ軍によるベルギー侵犯はこの計画の前提条件だった。ドイツ軍主力3個軍団は中立国ベルギーを侵犯して防備手薄なフランス北東部に進撃し、先鋒(せんぽう)のクルック将軍ひきいる第1軍はパリまで50kmにせまった。フランス・イギリス軍の主力は包囲をのがれるため、パリ前方のマルヌ川まで後退した。 1914年9月5日にはじまったマルヌ会戦で、ジョッフルひきいるフランス軍はクルック軍を猛攻し、ドイツ軍の進撃を阻止した。ドイツ軍の戦力は、作戦を指揮した参謀総長モルトケがシュリーフェン計画を修正し、ロシア軍の攻撃にそなえて2個軍団を東部戦線に急派したため、低下していたのである。ドイツ軍はマルヌ川からエーヌ川まで後退し、早期決戦にかけたドイツの勝利の機会はうしなわれた。9月14日、モルトケは引責辞任し、後任にプロイセン陸相ファルケンハインが任命された。 その後の戦闘はベルギーのイゼール川流域から北海海岸部にかけて続行されたが、戦線は膠着(こうちゃく)し、1914年末までに両軍はスイス国境からベルダンをへて北海にいたる約800kmの戦線で対峙した。翌年4月22日、ドイツ軍はベルギーのイーペルを攻撃して失敗したが、ドイツ軍はこの戦闘で史上初の毒ガスをもちい、戦争は無差別殺戮(さつりく)戦の様相をいっきょに強めた(→ 生物化学兵器)。このあと大戦終結まで両軍は鉄条網と機関銃座で堅固に防御された塹壕陣地(ざんごうじんち)をかまえ、西部戦線は泥沼の長期持久戦となった。
東部戦線では、予想に反してロシア軍の行動は迅速で、開戦とともに2個軍団が東プロイセンへ、4個軍団がオーストリア・ハンガリー領ガリチアへ侵攻した。東プロイセンに侵攻したサムソノフひきいるロシア軍は、1914年8月26~31日のタンネンベルクの戦で、ヒンデンブルクを司令官とし、ルーデンドルフを参謀長とする増援されたドイツ軍に包囲殲滅(せんめつ)された。 ガリチアに侵攻したロシア軍はプシェミシルとブコビナを占領し、翌1915年3月末にはハンガリー攻撃の準備を完了した。しかし、5月にはいると、ドイツ・オーストリア軍は中部ポーランドで大攻勢を開始し、9月までにポーランド、リトアニアなどからロシア軍を駆逐してロシア国境に進出したため、ガリチア侵攻のロシア軍もこの攻勢に対処する必要にせまられ、ガリチアから撤退した。
南部戦線では、オーストリア・ハンガリー軍とセルビア軍との間で戦闘がくりひろげられたが、1915年10月まで戦線は膠着状態におちいった。しかし、10月11日にブルガリアが同盟国に味方して参戦すると、同盟国軍はセルビアに進撃し、セルビア軍と来援のためギリシャから急派されたイギリス・フランス軍を撃破し、12月末までにセルビア全土を占領した。残りのセルビア軍はモンテネグロ、アルバニア、ギリシャのケルキラ島に、イギリス・フランス軍はギリシャのテッサロニキ(サロニカ)に撤退して抗戦をつづけた。
トルコ戦線では、1914年12月にオスマン帝国軍がロシアのカフカス地方に侵攻したが、ロシア軍の反撃をうけ、翌年8月までに撃退された。イギリス・フランス軍はロシア救援のためハミルトン提督指揮下の海軍部隊を派遣、15年2月からダーダネルス海峡のオスマン帝国軍陣地を艦砲射撃し、4月以後ゲリボル(ガリポリ)半島に2回上陸した。しかし、指揮の乱れとオスマン帝国軍のはげしい抗戦にあって、上陸作戦は失敗し、5月26日にはその責任をおって海相チャーチルが解任された。連合軍は12月と翌年1月に撤退を余儀なくされた。
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