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項目構成
プロローグ; 戦争の原因; 大戦にいたる国際危機; サラエボ事件と大戦の勃発; 地上戦; ベルダンとソンムでの攻防; バルカンでの戦い; 中東での戦い; 海上戦; 空中戦; アフリカと太平洋地域での戦い; 戦時の国民生活; アメリカの参戦とロシアの戦争離脱; 大戦の終結; 大戦の総括
1916年にはいると、前年に東部戦線で勝利したドイツ軍は約50万人の部隊を東部戦線から西部戦線に移動し、西部戦線で決戦をこころみた。ファルケンハイン立案のドイツ軍作戦計画は、大兵力をもってフランス軍の拠点ベルダン要塞(ようさい)を攻撃し、フランス軍を撃滅するというものだった。一方、連合軍の作戦計画はソンム川流域で夏期大攻勢にでて、ドイツ軍戦線を突破することにおかれた。2月21日、ドイツ軍はベルダン攻撃(→ ベルダンの戦)を開始し、2月25日にはドゥオーモン堡塁(ほうるい)、6月2日にボー堡塁を奪取したが、「ベルダンの英雄」ペタンがまもる要塞そのものの占領には失敗した。 フランス軍はこの戦闘で消耗し、ソンム戦(→ ソンムの戦)には当初予定した40個師団ではなく16個師団しか派遣できず、ソンム戦の主攻撃はイギリス軍にゆだねられた。1916年7月1日~11月18日の第1次ソンム戦で、イギリス軍は史上初の戦車を投入してソンム川流域の約325km²を奪取したが、ドイツ軍戦線を突破できなかった。ベルダンでは10~12月にフランス軍が反撃し、ドゥオーモン堡塁とボー堡塁の奪還(11月2日)に成功した。 ベルダン戦ではフランス軍、ドイツ軍とも約40万人、第1次ソンム戦ではイギリス・フランス軍約70万人、ドイツ軍約50万人という、膨大な死傷者をだした。この間の8月、ドイツ軍ではヒンデンブルクがファルケンハインにかわり参謀総長に、フランス軍では12月にジョッフルにかわりニベルが北部・北東部軍の最高司令官に就任した。
東部戦線ではロシア軍が全戦線で攻勢を開始して一時的成功をおさめたが、約10万人の損害をうけて士気の低下と厭戦(えんせん)気分の増大をまねいた。1916年8月27日、ルーマニアはロシア軍の攻勢に触発され、連合国陣営に参加してオーストリア・ハンガリー領トランシルバニアに侵攻したが、ドイツおよびオーストリア・ハンガリー軍は即座に撃退し、翌年1月半ばまでにルーマニア全土を占領、貴重な小麦と石油を獲得した。この結果、18年5月7日にルーマニアは同盟国とブカレスト条約を締結、ドブルジャ地方をブルガリアに割譲した。 ギリシャは中立を宣言していたが、国王政府は同盟国寄りの姿勢を強めていた。そのため、1916年10月9日、連合国の介入によって、ベニゼーロスを首班とするギリシャ臨時政府が樹立され、11月26日に臨時政府はテッサロニキでドイツとブルガリアに宣戦布告した。12月19日、イギリスが臨時政府を正式に承認し、この間、再編されたセルビア軍がテッサロニキに派遣され、ドイツ・ブルガリア軍と交戦した。
中東のアラビア半島では、1916年6月以降メッカの有力カリフでハーシム家のフサインが息子のアリー、ファイサルとともにオスマン帝国との闘争を再開し、イギリスに支援されヒジャーズ(現サウジアラビア領)の戦闘を指導した。これは、前年の10月24日にカイロで成立したイギリス高等弁務官マクマホンとのアラブ独立国家創建に関する基本的合意(フサイン・マクマホン書簡)にもとづいたものだった。10月29日、フサインはメッカでヒジャーズ王国の独立を宣言、イギリスもこれを承認した。さらに、イギリスは11月にアラビア半島での反抗支援の陽動作戦として、エジプト駐屯軍をシナイ半島とパレスティナに進撃させた。 こうしてオスマン帝国支配下のアラブ人の支援をとりつける一方で、イギリス外相バルフォアは、1917年11月2日、世界じゅうにひろがるユダヤ人社会の戦争協力をえるために、パレスティナの地にユダヤ人の国家(現イスラエル)建設をみとめる約束をおこなった(バルフォア宣言)。マクマホン書簡とバルフォア宣言という矛盾する約束は、今日にまでつづくパレスティナ問題を発生させることになる。
開戦時、イギリスの主力艦隊はドレッドノート型戦艦20隻を有し、スコットランド北部のオークニー諸島のスカパ・フローを基地としていた。一方、ドイツの外洋艦隊は北海諸港を基地とし、ドレッドノート型戦艦13隻を中心に編成されていた。総合的戦力のおとるドイツ海軍は大西洋での艦隊決戦をさけ、イギリスによる海上封鎖に対抗するため、潜水艦戦に期待をよせた。1915年5月7日にイギリス客船ルシタニア号がドイツの潜水艦によって撃沈され、アメリカ人乗客128人が犠牲になるという事件がおきた。この時期アメリカは中立を宣言しており、直接の参戦はしなかったものの、この事件を契機に、反ドイツ的な姿勢をいっそう強めた。そこで、ドイツは潜水艦戦を一時緩和した。 1916年5月31日、初の艦隊決戦がデンマークのユトランド半島沖ではじまり(→ ユトランド沖海戦)、149隻からなるイギリス艦隊と110隻からなるドイツ艦隊が激突した。この戦いでイギリス海軍は戦艦2隻、巡洋艦4隻、駆逐艦8隻を、ドイツ海軍は戦艦1隻、巡洋艦5隻、駆逐艦5隻をうしなった。こうして海戦は数的劣勢のドイツ海軍の局地的勝利におわったが、イギリス海軍の優位はうごかず、その後ドイツ海軍は艦隊決戦をいどむことはなかった。このため、長期戦にともなう物資不足にくるしむドイツは、制海権を確保しイギリスの海上封鎖を打破するために、一時ひかえていた潜水艦戦を強化し、17年2月1日、ついに無制限潜水艦戦に突入、4月6日のアメリカの参戦をまねくことになる。 はじめ、ドイツの潜水艦戦は連合国の海運に大きな被害をあたえたが、イギリスは駆逐艦による護送船団方式と航空機による監視体制を強化し、ドイツ潜水艦の活動は大きく制約されるとともに、損害も増加した。さらに、アメリカの参戦により、アメリカを中心とする連合国の船舶建造量は飛躍的に増大し、ドイツの潜水艦による被害をじゅうぶんにおぎなうことができた。ここでも経済力が戦局を左右したのである。
大戦は航空機の飛躍的進歩とその軍事利用をもたらした。飛行船をふくむ航空機の利用目的は偵察と爆撃にあった。1914年8月30日にドイツによる初のパリ爆撃が、12月21日には初のイギリス爆撃がおこなわれた。15~16年には、ドイツのツェッペリン飛行船がイギリス東部とロンドンを60回も爆撃した。15年半ばからは、航空機どうしの空中戦が頻繁になり、17年7月以降になると、西部戦線での制空権はイギリスにうつった。さらに、アメリカの参戦は連合国の空の優位を不動のものとした。18年11月にはアメリカの航空戦力は、航空機800機と搭乗員1200人にまで増強されていた。
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