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    第一次世界大戦 (だいいちじせかいたいせん、英語:World War I)は、 1914年 から 1918年 にかけて戦われた人類史上最初の 世界大戦 である。 ヨーロッパ が主戦場となったが、戦闘は アフリカ 、 中東 、 東アジア 、 太平洋 、 大西洋 、 インド洋 にもおよび ...

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    開戦前後から終結・戦後までの主な戦闘と出来事、資料・人名録などを、主に軍事的な視点から紹介。

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第1次世界大戦

第1次世界大戦 だいいちじせかいたいせん World War I
百科事典項目
項目構成
XI

アフリカと太平洋地域での戦い

開戦時のドイツのアフリカ植民地はトーゴランド(現トーゴおよびガーナ)、カメルーン、南西アフリカ、東アフリカだったが、1914年8月から16年2月に、トーゴランド、カメルーン、南西アフリカがあいついで連合軍に占領された。ドイツが頑強に抵抗したのは東アフリカで、現地ドイツ軍は同地の大半を占領されても、大戦終結まで連合軍との間ではげしい攻防をくりひろげた。

太平洋地域では、1914年8~9月、ニュージーランド軍がドイツ領サモアを、オーストラリア軍がビスマーク諸島とドイツ領ニューギニアを占領した。11月7日には日本が中国山東省のドイツの拠点であるチンタオ(青島)を奪取、さらに11月末までにマーシャル諸島マリアナ諸島パラオ諸島カロリン諸島にひろがるドイツ領南洋諸島を占領した。大戦終結後、日本はこれら諸島の大半の委任統治を国際連盟から承認された。

XII

戦時の国民生活

参戦した各国では、大戦が長期戦となるにしたがい、人的・物的資源の全面的動員が急務となった。イギリスでは1915年に軍需省が新設されて軍事物資生産が組織化されるとともに、16年1月に強制徴兵法が成立した。ドイツでも17年12月に電機コンツェルンのAEG社長ラーテナウが陸軍省に新設された戦時資源局の長官に就任し、原料確保と軍事物資生産の国家による統制が強化された。

こうして総力戦体制への移行とともに、各国では食糧をはじめ生活物資が配給制となり、国民生活は窮乏の一途をたどった。1916年11月のロシアの首都ペトログラード(現、サンクトペテルブルク)での大規模な民衆スト、17年4月のドイツでの食糧事情改善と反戦平和をもとめる大規模な民衆スト、5月のフランスでの兵士反乱、7~8月のドイツ艦隊での水兵暴動などにみられるように、民衆の厭戦気分は高まり、講和をもとめる運動が台頭した。また、男性が出征したことから生じた労働力不足の解消のため、女性の職場進出が促進された。こうして各国は、国民総動員のために国内体制の民主化などの社会変動が生じ、これが戦後に登場する大衆デモクラシーの一因となった。

XIII

アメリカの参戦とロシアの戦争離脱

1917年のアメリカの参戦と、革命のあらしにみまわれたロシアの戦争離脱は大戦中の最大の事件だった。アメリカが参戦した動機として、非人道的なドイツの無制限潜水艦戦に対する憤激、増大するイギリス・フランスへの借款を回収して自国資本を擁護する意図、中国への日本の進出に対する警戒などがあげられる。ウィルソン大統領はこうした諸問題を解決するには参戦して早期に大戦を終結させ、年来の理想である国際機構を設立し、恒久的な国際平和を実現することを急務とみなした。

こうして1917年4月6日、アメリカがドイツに対して宣戦布告すると、ペルー、ボリビア、ブラジルをふくむ大半の中南米諸国もこれにしたがった。アメリカはパーシング将軍ひきいる遠征軍をヨーロッパ戦線に派遣、6月には17万5000人ものアメリカ軍がフランスに到着、西部戦線に投入された。最終的にアメリカ軍の戦力は約200万人となり、連合国の優位は不動のものとなった。

一方、東部戦線では決定的な変化がおきた。ロシアで革命が勃発したためである(ロシア革命)。1917年3月8日、ロシアの民衆が蜂起(ほうき)し、3月15日には皇帝ニコライ2世が退位してロマノフ王朝は滅亡、臨時政府が設立された(ロシア暦による二月革命)。臨時政府は戦争を続行し、7月にブルシーロフひきいるロシア軍はガリチアで局地的勝利をおさめたものの、最後はドイツ軍にやぶれた。

ドイツ軍は1917年9月にリガを、10月にはラトビアの大半とバルト海の諸島を占領した。11月7日、レーニンの指導するボリシェビキはケレンスキーの臨時政府を武力で打倒(十月革命)、ソビエト政権を樹立した。ソビエト政権は12月3日にブレスト・リトフスク(現ベラルーシのブレスト)で同盟国陣営と休戦交渉を開始し、翌年3月3日に単独で講和条約(ブレスト・リトフスク条約)を締結、戦争から離脱した。

XIV

大戦の終結

アメリカの参戦とロシアの戦争離脱は、連合国陣営と同盟国陣営の双方に大きな影響をあたえ、1918年にはいると戦局は大きく転換した。ドイツはロシアとの講和により東部戦線から大兵力を移動させ、3月21日~6月にかけて西部戦線で最後の大攻勢を開始した。ルーデンドルフひきいるドイツ軍はフォッシュ指揮下のイギリス、フランス、ベルギー、アメリカ4カ国連合軍と激戦を重ね6月初めにマルヌ川に到達したが、7月半ばに戦力をつかいはたした。

1918年7月18日、フォッシュは反撃を命令した。連合軍はドイツ軍をマルヌ川から後退させ、8月8日にはドイツ軍の重要拠点アミアンを攻撃した。9月初めドイツ軍はソンム川背後の最終防衛陣地ヒンデンブルク線に撤退し、大攻勢は失敗に帰した。10月に入ると、イギリス軍はベルギー海岸沿いに進撃し、アメリカ・フランス軍は11月10日にスダンに達した。11月初めにヒンデンブルク線は完全に突破され、ドイツ軍は全西部戦線で退却を開始した。

ドイツ軍の敗北は、厭戦気分が高まり反戦平和をもとめていたドイツ国内で革命をよびおこした。1918年11月3日のキール軍港での水兵反乱を契機に革命の嵐はドイツ全土をおおい、11月9日に皇帝ウィルヘルム2世は退位してオランダに亡命、帝政は瞬時に崩壊した。この混乱の中で社会民主党の党首エーベルトを首班とする共和国政府が樹立された。戦争をおわらせ、国内秩序を回復するため、共和国政府は連合国との休戦をもとめ、休戦使節団を派遣した。11月11日、ドイツ使節団代表エルツベルガーはパリ北方のコンピエーニュの森で連合国との休戦協定に調印し、4年3カ月余りにわたった西部戦線での戦闘は終結した。

その他の戦線でも連合軍は攻勢に転じていた。バルカンでは1918年9月末に連合軍がブルガリア軍を壊滅させ、ブルガリアは休戦に応じていた。イタリアおよびオーストリア・ハンガリー戦線では、イタリア軍の攻勢がつづき、10月にはオーストリア・ハンガリー国内のチェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビアが独立を宣言した。11月3日、オーストリア・ハンガリーは単独で連合国と休戦し、11月11日には皇帝カール1世が退位して帝政が崩壊し、その翌日にオーストリア共和国が樹立された。

中東ではイギリス軍大佐ロレンス(アラビアのロレンス)のひきいるアラブ軍とイギリス軍が合流、1918年10月にはダマスカスアレッポなどのオスマン帝国の要衝を奪取する間、フランス海軍部隊がベイルートを占領した。10月30日、オスマン帝国は休戦協定に調印し、同盟国陣営から脱落した。

XV

大戦の総括

初の総力戦となった大戦は、戦勝国にも敗戦国にも膨大な損害をもたらした。全交戦国の戦費総額は1860億ドルにのぼり、地上戦での死傷者は3700万人余りに達した(付表、第1次世界大戦の死傷者数)。また、約1000万人の市民も死傷した。そのため、大戦後、恒久平和の実現に世界的な期待がよせられたが、この期待は実現されなかった。民族自決、無併合・無賠償、勝利なき平和などに集約される戦後処理の基本原則を提唱したアメリカ大統領ウィルソンの「14カ条の平和原則」の大半は、国際連盟の創設をのぞき、イギリス、フランスなどの戦勝国に無視された。

反対に、戦勝国はドイツに対する報復に燃えるフランスにうながされ、戦後処理のために開かれたパリ講和会議ではドイツを除外して審議をすすめ、ベルサイユ条約締結(1919年6月28日)をドイツに強要したのである。この条約は戦争責任をドイツとその同盟国のみに帰しただけでなく、ドイツの賠償支払い義務、全海外植民地の返還、一方的軍縮などの、ドイツにとってきわめて苛酷(かこく)な内容をふくんでいた。

また、戦勝国はオーストリアとサンジェルマン条約(1919年9月10日)、ブルガリアとヌイイー条約(1919年11月27日)、ハンガリーとトリアノン条約(1920年6月4日)、オスマン帝国とセーブル条約(1920年8月10日)を締結したが、それらの内容はすべて戦勝国に有利なものだった。この一連の講和条約にもとづく戦後ヨーロッパの国際秩序をベルサイユ体制とよぶ。その後、敗戦国には社会的混乱が続発し、多くの国では右翼政権が誕生した。

大戦後のヨーロッパの勢力図は激変した。ドイツ、オーストリア・ハンガリー、ロシアの3つの帝国は解体し、これら3帝国の旧領土から民族自決の原則にもとづいてフィンランド、エストニア、リトアニア、ラトビア、ポーランド、チェコスロバキア(現チェコ共和国、スロバキア共和国)、ハンガリー、ユーゴスラビア(現クロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)の8カ国が新たに誕生し、今日の東欧の土台がきずかれた。敗戦国だけでなく、イギリス、フランスなどの戦勝国も長期持久戦の疲労から衰退し、アジア、アフリカでの反植民地主義運動を加速させることになった。

一方、新興国アメリカと史上初の社会主義国ソビエト連邦が台頭し、戦後の新たな国際関係の基軸がつくられることになった。その意味で、大戦はドイツの哲学者シュペングラーのとなえる「西洋の没落」をしめすものとなり、現代史の起点としての歴史的意義を有したのである。

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