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1483~1546 ドイツの神学者、プロテスタントの宗教改革をおこした指導者。その影響力は宗教だけでなく、ひろく政治や経済・教育・言語にもおよび、近代ヨーロッパ史の重要人物のひとりにかぞえられる。
ルターは、ドイツ中部ザクセン地方のアイスレーベンに生まれた。家はもともと小作農で、彼自身「農民の子である」と強調していたが、父ハンスは炭坑夫として、マンスフェルトの銅鉱山ではたらいていた。ルターは、マンスフェルト、マクデブルク、アイゼナハで初等・中等教育をうけ、1501年に17歳でエルフルト大学に入学。02年に学士、05年に修士を取得した。 その後は父の意向により法律をまなぶつもりだったが、同じ1505年の夏に突然、勉学を放棄して教科書も売りはらうと、エルフルトにあるアウグスティヌス修道会(聖アウグスチノ修道会)にはいり、友人をおどろかせ父を狼狽(ろうばい)させた。のちにルターはこのときのことを、友人が急死したり、自身が落雷にみまわれるなど人間の死に直面し、生命のはかなさに気づいたからだと説明している。修道会では忠実に修練者としてのつとめにはげんだが、期待していたような心の平安をみいだすことはできなかった。それでも06年の秋には修道士の請願をたて、司祭職にえらばれた。07年に司祭に叙階され、敬虔(けいけん)に初ミサをとりおこなった。 叙階後、神学の勉強をしていたルターは、当時のドイツに数多くあった修道会経営の新しい大学の教授になるよう要請された。1508年に、アウグスティヌス修道会の司教代理で、ルターの友人であり相談相手でもあったヨハン・フォン・シュタウピッツから新設のウィッテンベルク大学(1502年創立)にまねかれ、倫理哲学の基礎を講義した。09年には神学の学士号を取得、エルフルトにもどって講義をするかたわら勉学をつづけた。 1510年11月、アウグスティヌス会の7つの修道院を代表してローマを訪問し、敬虔な信者として聖務をはたしたが、ローマの聖職者があまりに世俗的なことに衝撃をうけた。エルフルトにもどったルターは司祭の職についたが、まもなくウィッテンベルク大学にふたたび派遣されることになり、神学博士号をとるべく学問をつづけるようもとめられた。12年に神学博士号を取得、同大学の聖書学教授となり、生涯にわたって教鞭をとった。 ルターは、神の愛と自分自身の救いについて確信がもてないまま、説教者・教授・代理司祭として活動していた。そして、講義のために新約聖書を研究しているうちに、キリスト教徒は自身の努力によってすくわれるのではなく、神の恩寵によってすくわれると考えるようになった。ルターがこの信仰体験をいつ、どこでしたのかについては、研究者の間で意見がわかれているが、彼の人生における決定的な出来事だったのはたしかである。これを機に、ルターはカトリック教会のおもな教義のいくつかに、はっきりと反対するようになったからである。
1517年10月31日、ルターは「九十五カ条の提題」をラテン語で発表、ひろく議論をまきおこすこととなった。それは、ローマのサン・ピエトロ大聖堂の建築費用をあつめるために贖宥状が乱発されたことを批判するものだったからである。ルターはこの提題をウィッテンベルク城の教会の扉に釘でうちつけたと一般に信じられているが、本人の著述はそのことにいっさいふれていないため、疑問をとなえる研究者もいる。 この提題がどのようなかたちで発表されたにせよ、大きな騒ぎとなったのはまちがいなく、ただちにドイツ語に翻訳されてドイツじゅうにひろまった。ウィッテンベルクをはじめ各地の大学で討論会がひらかれ、ルターの精神を擁護して、この運動をさらにすすめる意見があいついだ。いっぽうローマでは教会審問がおこなわれ、1520年6月15日にはルターの教えを非難する勅書、21年1月には破門宣告がだされた。 1521年4月、ルターはカール5世からウォルムスの国会に召喚され、自説を撤回するようもとめられた。彼はこれを頑強に拒否し、聖書によって明確なまちがいと納得できないかぎり、撤回するつもりはないといった(このとき「私はここにたっている、そうするよりほかにないからだ」と宣言したという言い伝えが長く信じられてきたが、伝説にすぎないようだ)。 カール5世はルターを帝国から追放したが、領主のザクセン選帝侯フリードリヒが保護検束によって彼をたすけ、ワルトブルク城にかくまった。そこでルターは著作活動に専念し、新約聖書を原典のギリシャ語からドイツ語に翻訳する作業にとりかかった。この翻訳聖書は、標準的なドイツ語の確立に重要な役割をはたすことになる。しかし、ウィッテンベルクではルターを信奉する急進的な人々がたびたび過激な行動にでて社会不安をおこし、ルターは町にもどらざるをえなくなった。1522年3月にウィッテンベルクへもどったルターは、説教活動をはじめて町の平穏をとりもどした。
ルターはウィッテンベルクで説教や著作活動をつづけたが、まもなくドイツ農民戦争(1524~26)をめぐる論争にまきこまれた。当初、農民の指導者は、自分たちの要求をルターの著作によって正当化しようとしていた。ルターは、農民たちの神学的な主張を誤りとみなしたが、その政治的な要求についてはおおかた支持した。しかし、農民たちが暴力にうったえはじめると、これに抗議し、諸侯側にたって秩序を回復させようとした。のちに諸侯たちの過酷で復讐(ふくしゅう)的な態度を否定するが、このときの彼の態度をみて多くの友人がさっていった。 こうした中、1525年にルターはもと修道女のカタリーナ・フォン・ボラと結婚した。幸福な結婚生活をおくる中で、彼女は多忙なルターをつねにささえていた。また、ルターは初期の著作「キリスト者の自由」(1519)、「ドイツ国民のキリスト者貴族に与える書」(1520)、「教会のバビロニア捕囚」(1520)、「奴隷意志について」(1525)で、自身の基本的な神学論をあらわしたほか、29年には、もっとも有名な著作となった「小教理問答」を書いた。この「小教理問答」は、十戒、使徒信条(→ 信条)、主の祈り、洗礼、聖餐(せいさん)式に関して質疑応答のかたちでまとめたもので、福音主義にもとづいて神学を改革していくことが簡潔ながら生き生きとした表現で書かれている。 1530年、アウクスブルクの国会で、破門・追放されていたルターのかわりに、同志メランヒトンが改革者としての意見を明確にした文書「アウクスブルク信仰告白」を提出した。また、32年にはルターが旧約聖書をヘブライ語からドイツ語に翻訳して発行した。こうして彼の影響は、ヨーロッパの北部や東部にもひろまった。とくに、支配者は教会の監督下から独立しなければならないと提唱したため、多くの諸侯から支持された(しかし、やがて彼の本来の意図とは反対に解釈される)。彼の名声は高まり、ウィッテンベルクは文化の中心地となった。
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