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オペラ

オペラ Opera
百科事典項目
項目構成
VIII

近・現代のオペラ

20世紀がすすむにつれ、オペラは民族主義的な色彩をのこすものと、より国際的な無調と12音技法をつかうものにわかれた。ロシアのプロコフィエフはアメリカの西部を旅行中に諧謔(かいぎゃく)的な「3つのオレンジへの恋」を作曲して、1921年シカゴで初演し、死の直前には、長大な「戦争と平和」(1946、55年改訂)を完成させた。ショスタコービチは「ムツェンスクのマクベス夫人」(1934)でソビエト政府から批判され、のちに改訂版が「カテリーナ・イズマイロワ」(1963)という題名で上演された。

近・現代の作曲家の多くは、管弦楽の技法だけでなく、民俗音楽や大衆音楽、ジャズなどの技法をオペラに応用している。その代表としてフランスでは「スペインの時間」(1911)や「子供の時間」(1925)のラベル、「ティレジアスの乳房」(1947)や「カルメン会修道女の対話」(1957)のフランシス・プーランクなどがあげられる。スペインでは「はかない人生」(1938)のファリャ、ドイツでは「画家マティス」(1938)のヒンデミット、劇作家ブレヒトが台本を担当した「三文オペラ」(1928)と「マハゴニー市の興亡」(1929)のワイルがあげられる。ロシアには、新古典主義の技法によって「道楽者のなりゆき」(1951)を作曲したストラビンスキーがいる。

イタリア・オペラでは、イータロ・モンテメッジやフェラーリなど、かなり保守的なメロディ中心の作曲家が活躍する一方で、「大聖堂での殺人」(1958)のイルデブランド・ピッツェッティ、「囚われ人」(1950)のルイジ・ダラピッコラ、「非寛容イントレランツァ」(1960)のルイジ・ノーノなどが過激な実験もおこなった。

第2次世界大戦後の主要なオペラ作曲家には、ドイツのボーリス・ブラッハー、ベルナー・エック、ハンス・ベルナー・ヘンツェ、オルフ、オーストリアのゴットフリート・フォン・アイネム、アルゼンチンのアナベルト・ヒナステーラがいる。イギリスではディリアスとボーン・ウィリアムズがすぐれた作品をのこしたほか、代表的な傑作として、ベンジャミン・ブリテンが作曲した漁師の物語「ピーター・グライムズ」(1945)があげられる。ブリテンはほかに、「アルバート・ヘリング」(1947)、「ねじの回転」(1954)、「真夏の夜の夢」(1960)、「ベニスに死す」(1973)などをのこした。

アメリカで最初のグランド・オペラはウィリアム・ヘンリー・フライの「レオノーラ」(1845)である。それにつづく、ウォルター・ダムロッシュの「緋文字」(1896)などの作品には、ヨーロッパのスタイルで書かれたものが多くみられる。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で上演された作品には、フレデリック・コンバースの「希望の笛」(1910)、ヘンリー・ハドリーの「クレオパトラの夜」(1920)、ディームズ・テイラーの「ピーター・イベトソン」(1931)などがある。

純粋にアメリカ的なオペラは20世紀になって登場する。アメリカ黒人音楽の影響は、ラグタイムの作曲家スコット・ジョプリンの「トゥリーモニシャ」(没後の1974年に初演)や、ガーシュウィンの「ポーギーとベス」(1935)などの作品にみられ、バージル・トムソンの「4人の聖者の3つの行為」(1934)と「われらすべての母」(1947)、マーク・ブリッツスタインの「レジーナ」(1949)には、アメリカの民俗音楽や大衆音楽がつかわれた。

アメリカ的なテーマをあつかったオペラにはダグラス・ムーアの「ベビー・ドー物語」(1956)、カーリスル・フロイドの「スザンナ」(1955)、ジャック・ビーソンの「リジー・ボーデン」(1965)などがある。もっともよく知られている現代アメリカのオペラにはイタリア生まれの作曲家ジャン・カルロ・メノッティの「霊媒」(1946)、「電話」(1947)、「領事」(1950)、「アマールと夜の訪問者」(1951)などの作品がある。近年のアメリカのオペラ界には、ミニマリストの作曲家フィリップ・グラスや、「中国のニクソン」(1987)で知られるジョン・アダムスなどがいる。

IX

オペラの上演

オペラの主役はいつも声であり、上演が成功するかどうかは伝統的にプリマドンナの出来に左右されてきた。しかし20世紀にはいると、指揮者、舞台装置家、演出家の全体的なアンサンブルが、歌手同様に重視されるようになった。イタリアのプロデューサーで演出家のフランコ・ゼッフィレリは、1960年代初期に新ロマン主義的なオペラを上演して名声を博した。ほかにも、イギリスのジョナサン・ミラー、アメリカのフランク・コルサーロ、サラ・コールドウェル、ピーター・セラーズなどの演出家が知られている。

上演の技術的進歩と歩調をあわせるように、現代の作曲家はシンセサイザーなどの電子楽器をつかってオペラを作曲するようになった。厳密にはオペラではないが、バーンスタインの「ミサ曲」(1971)は、ダンス、電子楽器による音楽、斬新な舞台技術をオペラの要素とくみあわせてつくった作品である。フレデリック・ディリアスの「村のロミオとジュリエット」(1907)と、エーリヒ・ウォルフガング・コルンゴルトの「死の街」(1920)では、スライド・プロジェクターによる映像が効果的につかわれた。ともにフランク・コルサーロ演出、ニューヨーク・シティ・オペラによる舞台である。

ミネアポリス・センター・オペラは、これまでに録音されたファウストもののさまざまなオペラとオリジナルの音楽をまぜあわせて「ファウスト対ファウスト」を生みだしたが、そこでもすばらしい照明と映像の技術がもちいられた。またロイド・ウェバーとティム・ライスによる「ジーザス・クライスト・スーパースター」(1971)のようなロック・オペラでも、マルチメディアを利用した舞台技術が活躍している。実験的な劇場であるなしにかかわらず、オペラは17世紀同様、舞台美術と上演技術の発展に寄与しているといえる。

LPレコードの開発によって全曲録音が可能になると、オペラは新しい観客をひきつけた。メトロポリタン歌劇場のラジオによる中継放送も、1931年の「ヘンゼルとグレーテル」の放送以来、週に1度のペースでつづけられている。はじめからテレビ放映用に書かれたオペラとしては、メノッティの「アマールと夜の訪問者」(1951)や、ブリテンの「オーウェン・ウィングレーブ」(1971)などがある。ベルイマン監督によるモーツァルトの「魔笛」の映画版は、映画によるオペラとして高い評価をえた。

現在、オペラは芸術的にも技術的にも絶頂期にあるが、財政的な問題をかかえているオペラ劇場もある。ヨーロッパの劇場ではほとんどが国家助成をうけているが、アメリカでは個人や企業からの寄付金が活動の基盤となっている。

X

日本のオペラ

日本ではじめてオペラが上演されたのは1894年(明治27)のことで、グノーの「ファウスト」を、オーストリア代理公使クーデンホフらが、東京音楽学校の奏楽堂で演じたものであった。日本人だけのオペラは、グルックの「オルフォイス」を、1903年に音楽学校の学生であった三浦環らが上演したことにはじまる。その後は、小松耕輔らが日本人の手になるオペラをつくろうと苦闘し、一方では、外国人の指導によるオペラが帝国劇場で上演されたが、いまだ一般に定着するには至らなかった。

大正時代にはいると、より大衆的な通俗オペラが、帝劇オペラや浅草オペラとよばれて人気を博したが、これらはオペラの本来的な姿からはほど遠いものであった。昭和になると山田耕筰らが日本楽劇協会を設立し、1929年(昭和4)本格的なオペラ「堕ちたる天女」を歌舞伎座で上演。34年には欧米で活躍していた藤原義江が藤原歌劇団を結成し、ようやく日本人による本格的なオペラが上演されるようになった。

第2次世界大戦後には、長門美保歌劇団、関西歌劇団、二期会なども発足して活動を開始し、とくに二期会と藤原歌劇団は着実に歩みをすすめながら、日本のオペラ界をリードする存在となっていく。その間、団伊玖磨の「夕鶴」、清水脩(おさむ)の「修善寺物語」、三木稔の「仇(あだ)」など、海外でも評価される優秀な創作オペラが生まれ、歌手では岡村喬生、東敦子、林康子、指揮者では若杉弘や小沢征爾らが、世界の歌劇場で活躍するようになった。とはいえ、国内の状況をふりかえってみれば、現在でも常設劇場をはじめ、じゅうぶんな条件が満たされているとは言えず、文化として成熟していくテンポは、いまだに遅々としていると言わざるをえない。

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