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Windows Live® の検索結果 15~20世紀のヨーロッパでもっとも由緒があり、かつ強大な力をもった王家。 ハプスブルクの名称は、王家の城の名ハビヒツブルク(鷹の城)に由来する。城は1020年、現在のスイスのアールガウ州を流れるアーレ川のほとりに、シュトラスブルクの司教ウェルナーによってたてられた。王家の起源ははっきりしないが、950年ごろのカロリング朝の貴族グントラムが祖先とみなされている。その後11世紀後半に、ウェルナー司教の甥で同名のウェルナーが初代ハプスブルク伯となっている。 1273年、ハプスブルク伯ルドルフがルドルフ1世として神聖ローマ帝国の皇帝にえらばれ、ハプスブルク家はヨーロッパの名門に仲間入りした。78年、ルドルフ1世はボヘミア王オタカル2世から、オーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテン、クラインの諸公領をうばい、ハプスブルク家の力をいちじるしく増大させた。82年にルドルフ1世はこれらの公国を後継者たちにさずけ、これらはオーストリアと総称されてハプスブルク家の世襲領地の中心となり、公として、大公として、あるいは皇帝として(大公の称号は1453年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世が創設)、1918年まで支配しつづけた。 ルドルフ1世の子、神聖ローマ皇帝アルブレヒト1世が1308年に暗殺されると、その後1世紀以上ハプスブルク家は帝位から遠ざかるが、この間、それまでどおり外交とハンガリー、ボヘミア両王家との政略結婚をとおして拡大政策をすすめた。1438年にアルブレヒト5世が神聖ローマ皇帝になると、その後1742~45年に短期間中断するものの、1806年にナポレオン1世によって廃されるまで、帝位はハプスブルク家がもちつづけた。 1493年に皇帝となったマクシミリアン1世は、抜け目ない外交と政略結婚によって、その後4世紀にわたるハプスブルク家によるヨーロッパ支配の基礎をきずいた。マクシミリアン1世の結婚で、ハプスブルク家は北海沿岸にひろがるブルゴーニュ公国をえ、その息子フィリップの結婚はアラゴンとカスティリャの王位をもたらした。 マクシミリアン1世の跡をついだカール5世は、スペインとその海外領土、イタリアの一部、ネーデルラント(現オランダ、ベルギー)、そしてドイツとオーストリアのハプスブルク家領を相続し、同家の勢威は絶頂に達した。1556年、カール5世はスペイン、ネーデルラント、イタリアの領土を子のフェリペ2世にゆずり、オーストリアと帝位は弟のフェルディナント1世にゆずった。フェルディナント1世は26年にボヘミアとハンガリーの王位もついでいた。 カール5世が死ぬとハプスブルク家は2つにわかれ、オーストリア系が帝位をうけついだ。スペイン・ハプスブルク家は1700年に断絶、スペイン継承戦争(1701~14)がおこり、ユトレヒト条約(1713)とラシュタット条約(1714)によって、スペインの王位はフランス出身のブルボン家にうつったが、オーストリア・ハプスブルク家はイタリアのスペイン領(シチリアをのぞく)とネーデルラントの南部をえた。 1740年、オーストリア・ハプスブルク家の男子の系統はカール6世を最後にとだえたが、カール6世は生前の13年にだした国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクツィオン)で、ハプスブルク家領を分割せず娘マリア・テレジアが継承することを国際的にみとめさせた。36年、マリア・テレジアはロートリンゲン公フランツ(のちの神聖ローマ皇帝フランツ1世)と結婚、ハプスブルク・ロートリンゲン家をおこした。オーストリア継承戦争(1740~48)で、マリア・テレジアはシュレジエン(シロンスク)の大部分をプロイセンにうばわれたが、その他の領地はまもりぬいた。 マリア・テレジアの孫フランツ2世が、最後の神聖ローマ皇帝となった。フランツ2世のもと、ハプスブルク帝国はフランス革命とナポレオンに対抗してヨーロッパを防衛するうえで指導的な役割をはたしたが、1804年、神聖ローマ帝国の崩壊を予期したフランツ2世は、オーストリア皇帝を名のり、2年後に神聖ローマ帝国を解体した。彼の息子、フェルディナント1世は病弱で政務をとることができず、48年革命のさなか、多民族からなるハプスブルク帝国の支配があやうくなると、甥のフランツ・ヨーゼフ1世に帝位をゆずらざるをえなかった。 フランツ・ヨーゼフ1世の治世に、オーストリアはイタリアから追いだされ、ドイツからもしめだされた。のこったハプスブルク家の領地は、1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国として再編成された。 第1次世界大戦(1914~18)の敗北により、ついにハプスブルク帝国は崩壊、領土の大部分をうしなった。ハプスブルク家最後の皇帝カール1世は、ハプスブルク家の世襲的諸権利を放棄しようとしなかったが、1919年、新しく成立したオーストリア共和国はハプスブルク家を追放した。21年、カール1世は2度にわたってハンガリー王位にかえりざこうとしたが失敗、亡命先で死去した。
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