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    「TBS世界陸上ベルリン大会」番組オフィシャルサイトです。テーマは『記録の壁、崩壊。』大会は、2009年8月15日(土)から開催!TBS系列独占放送。世界のトップアスリートたちの活躍、熱い感動と興奮を見逃すな!

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    ベルリン滞在に必要な生活情報・観光情報を詳細にわたって伝えているサイト。天使や悪魔の仕掛けもおもしろい。

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ベルリン

ベルリン Berlin
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

ドイツ北東部にある同国の首都。北ドイツ平野の、エルベ川の支流シュプレー川とハーフェル川の合流点に位置し、多くの湖にかこまれている。ドイツ最大の都市で、東西に分割された時期をのぞき、1871年以来ドイツの首都として政治・経済・文化の中心をになった。面積は約889km²。人口は338万7800人(2005年推計)。

ベルリンは第2次世界大戦ドイツ民主共和国(東ドイツ)にくみこまれ、東西に分割された。西ベルリンはドイツ連邦共和国(西ドイツ)に属し、東ベルリンには東ドイツの首都がおかれ、以降、冷戦の焦点となる。1961年には東ドイツによってベルリンの壁がきずかれ、89年11月まで東西ベルリン間の自由な交通をさまたげていた。この間に東側から西ベルリンに脱出をくわだて壁をこえようとした100人以上の人々が射殺された。90年10月にドイツが再統一されるまでに壁の大部分はこわされたが、一部が記念のためにのこされている。

II

経済

1949年のベルリン分割によって、東西ベルリンはそれぞれ東ドイツと西ドイツの経済にくみいれられた。

東ベルリンは、東ドイツの商業、工業、金融、輸送の中心となり、鉄鋼・ゴム製品・電気製品・輸送機器・化学薬品・食品加工などの工業が発達した。また、シュプレー川の重要な内港としての機能をもち、運河によってバルト海とも連絡している。町の真南にはシェーネフェルト空港がある。

第2次世界大戦で破壊された西ベルリンの経済は、ソ連が1948~49年に西ベルリンを封鎖したとき(ベルリン封鎖)、ふたたび打撃をうけた。しかし、50年代に入り経済は復興をはじめる。これには、マーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画)によるアメリカの経済援助が大きな役割をはたした。町は急速に工業化され、電気製品や電子機器、大量の機械・金属・織物・衣服・化学製品・印刷物・加工食品が生産された。国際金融や学術、研究、映画産業の中心でもあり、高速道路や鉄道、運河、空路で西ドイツとむすばれていた。テーゲル、テンペルホーフ、ガートに空港がある。

1989年のベルリンの壁の崩壊によって、ベルリンはふたたび1つの町としてよみがえった。経済統合は公式には90年7月にはじまり、東ベルリンの経済は、かつての国有企業が民営化されるなど大きな変動を経験する。再統一によって壁でへだてられていた人々との再会が可能となったが、それはまた、住宅不足、失業、犯罪や外国人に対する暴力の増加など、大きな経済・社会問題をもたらした。さらに、再統一のための経費は、増税や国家助成金、社会保障の削減によっておぎなわれた。

III

都市景観と文化

ベルリンを代表するブランデンブルク門は、建築家ラングハンスがアテネパルテノンから発想をえて1788~91年に建造したもので、ベルリンでもっとも重要な大通りであるウンター・デン・リンデンの西端にある。ブランデンブルク門は、1989年12月までは東西ベルリンをへだてる境界でもあった。

ウンター・デン・リンデンは、ブランデンブルク門から東にむかってシュプレー川の博物館島まで一直線につづくボダイジュの並木道で、幅60m、長さ1400m。フリードリヒ2世の命令により道沿いに荘重な建物が次々に建設された。現在も、古典様式のベルリン国立歌劇場、旧王立図書館(1780年設立)、現在はドイツ歴史博物館となっているバロック様式の兵器廠(へいきしょう)、聖ヘートウィヒ教会、ベルリン大学(フンボルト大学、1810年創立)などがたちならぶ。通りの南には、17世紀後半にフランス人移住者たちがすんだ地域があり、その中心のジェンダルメン広場には、ギリシャ神殿風の堂々たるコンサートホールのシャウシュピールハウスをはさんでフランス聖堂(現在、一部がユグノー博物館)とドイツ聖堂が配置されている(3つともシンケル設計)。

ウンター・デン・リンデンの周辺には、そのほかコーミッシェ・オーパー、シュプレー川をへだてた北にブレヒトの劇の上演で有名なベルリーナー・アンサンブル劇場がある。

ベルリンでもっともにぎやかな大通りは、ホテル、レストラン、商店、映画館がたちならぶクーアフュルステンダム(通称クーダム)である。通りの東端には、第2次世界大戦で破壊されたウィルヘルム皇帝記念教会の塔の廃墟(はいきょ)が戦争記念物として保存されている。廃墟をはさんで多角形の教会堂と鐘楼がたつ。その東には22階建てのショッピングセンター、オイローパ・センター(1965)がある。北東には、広大な緑の公園ティーアガルテンがブランデンブルク門方向に約3kmほどのびている。

ティーアガルテンの東端にたっているのは、かつてのライヒスターク(ドイツ帝国議会議事堂)を改修したドイツ連邦議会議事堂で、ガラスの巨大なドームが話題となって観光名所にもなっている。ティーアガルテン内の動物園は、世界でも最古の動物園のひとつである。ティーアガルテンの南は旧西ベルリンの文化センター地域で、工芸美術館、バウハウス資料館、楽器博物館、新国立図書館、ミース・ファン・デル・ローエ設計の20世紀芸術を所蔵する新ナツィオナールガレリー(1968)、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地フィルハーモニー・ホール(1963)がある。

シュプレー川の中州の博物館島には、ギリシャ・ローマとオリエントの美術のすぐれたコレクションをもつペルガモン博物館(1930)や、古代エジプトとビザンティン美術のボーデ博物館、19世紀の絵画を展示する旧ナツィオナールガレリー(1876)、旧博物館(1830)と新博物館など、博物館、美術館が集中している。

シュプレー川東岸にあるアレクサンダー広場は、レストランと商店にかこまれた大きな広場である。近くには、かつて東ベルリンのシンボルだったテレビ塔(365m)、プロイセンの首都時代の最後をかざる建築物「赤い市庁舎」(1861~69)がある。13世紀にたてられた教会がもとになっている聖マリア教会は、1484年のペスト流行に際して描かれたといわれる「死の舞踏」の壁画をのこしている。聖ニコライ教会も同じくベルリン最古の教会で、周囲のたたずまいとともに歴史的町並みとして復元されている。

ベルリンの市域の3分の1は森と農地で、南西部は広大なグルーネバルトの森が占めている。グルーネバルトは、広い森林とハーフェル川がつくりだした大きなワンゼー湖からなる。また、1936年のオリンピックのために建設された巨大なオリンピック・スタジアムや、高さ138mの放送塔(1924~26)がある。この地域には、バロック様式のホーエンツォレルン家の離宮シャルロッテンブルク宮殿(1699)や古代博物館もあり、エジプト博物館は世界的に有名なネフェルティティの胸像を所蔵している。

グルーネワルトの森近くのダーレムには、民族学博物館、インド・イスラム・東アジア芸術博物館などからなるダーレム博物館がある。ブリュッケ美術館は、キルヒナーやシュミット・ロットルフなどの20世紀ドイツ表現主義の作品を展示している。

高等教育機関として、ベルリン大学のほかにブルーノ・ロイシュナー経済大学(1950年創立)、ハンス・アイスラー音楽大学(1950)、東ベルリンから亡命した教授たちが創設したベルリン自由大学(1948)、ベルリン工科大学(1879)、ベルリン芸術大学(1975。前身は1696年創立の王立芸術アカデミー)がある。

IV

歴史

ベルリンの地には、前8000年ごろの狩猟と採集活動の痕跡(こんせき)がのこっている。1世紀初めにこの地域に移住してきたゲルマン人は、500年までに南方と西方に移動し、かわってスラブ系のウェンド人がすみついた。8世紀にフランク王国カール大帝に征服されたが、10世紀までにウェンド人は支配を回復。しかし1147年以降、神聖ローマ皇帝のコンラート3世、バイエルンのハインリヒ獅子公(ししこう)、のちにブランデンブルク辺境伯となるアルブレヒト熊伯の支配下におかれた。

1230年ころ、西からやってきた移住者がシュプレー川北岸にベルリン、対岸の中州(今日の博物館島)にケルンの2つの入植地をきずく。2つの町は商業でさかえ、1359年にはハンザ同盟にくわわった。1415年にベルリンとケルンは、ブランデンブルク選帝侯国の一部としてホーエンツォレルン家の支配下に入ったが、ハンザ同盟からの脱退を強いられ、共同で選帝侯国の首都となった。2つの町が公式に合併されたのは1709年のことである。

ホーエンツォレルン家のもと、ベルリンでは皮革加工・織物業・製紙業・製陶・ビール醸造が発達した。しかし、1576年にはじまるペストの流行により、何千人もの死者を出し、1600年には人口は1万2000人となった。

1618年にはじまった三十年戦争では、当初ブランデンブルク選帝侯の中立政策によって繁栄を維持したが、31年以降はスウェーデン軍への宿営地の提供を余儀なくされる。スウェーデン軍は多額の納税を強要し、さらに飢餓や新たな疫病の流行、放火や略奪の被害をうけてベルリンは衰退、人口も半減した。

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