Windows Live® の検索結果
Windows Live® の検索結果 ページ 5 / 6
項目構成
南アンデスのチリでは、マプチェ(アラウカノ)のような定住生活をする農耕民が、トウモロコシ、ジャガイモなどを耕作する。かつてはリャマを飼育していたが、スペイン人の侵略後は、牛、ヒツジ、豚、鶏、ウマをかうようになった。アルゼンチンの広大な草原地帯パンパでは、ラクダ科の野生動物グアナコや、ダチョウに似たレアの狩猟、大西洋沿岸では漁労や植物採集がおこなわれていた。1555年以降、ウマを手にいれたテウェルチェ族は、パンパの大草原で大がかりなグアナコ狩猟をするようになった。さらに南のマゼラン海峡周辺やフエゴ島には、セルクナム(オナ)、ヤーガン、アラカルフという移動性の高い民族がいた。この地域では、グアナコが少ないので、おもに魚や貝をとる生業が中心となり、アザラシなどの海獣も狩猟の対象になった。ヨーロッパ人との接触によって伝染病が流行し、人口は激減、今日生存している先住民はほとんどいなくなった。
西インド諸島であれ、ノースカロライナのローノーク島であれ、ヨーロッパ人が「新世界」と信じて最初に上陸した地点では、どの先住民も彼らを歓迎した。先住民はこの肌の白い人間たちを、衣服や装身具、大きな船だけでなく、鉄のナイフや剣、銃や大砲、銅や真鍮(しんちゅう:黄銅)の鍋(なべ)類等々、そのテクノロジーのゆえに、神秘的な存在とまで思ったのである。 しかし、先住民はまもなくヨーロッパ人もただの人間であることを知る。16~17世紀の記録によると、彼らはヨーロッパ人をさもしい人間と考えるようになっていた。自分の財産はなにひとつわけようとしないのに、ビーバーの毛皮やシカ皮ときけば、いくらでもほしがる貪欲(どんよく)な人間であると、非難もしている。また、ヨーロッパ人が先住民の宗教、性や結婚の慣習、食事などの習慣に理解をしめさず、否定的態度をとることにおどろいていた。ヨーロッパ人が恒久的な家屋や集落を建設することにも、先住民はとまどう。近くに獲物や魚がいなくなり、薪(まき)なども不足してくれば、集落や家をすてて新しい土地に移動するのがふつうだったからである。 先住民にいわせれば、ヨーロッパ人は自然のリズムと本性についてなにもわかっていなかった。ヨーロッパ人にとって自然とは障害物であり、敵でさえあるらしかった。また自然は経済的資源でしかなかった。森は大量の木材をきりだすところ、ビーバーの群は高価な毛皮の山、バイソンの群は膨大な量の皮革とタン料理の材料にしかみえなかった。ヨーロッパ人からみれば、先住民自身も資源だった。魂は改宗の対象であり、肉体は労働力とみなされた。要するに先住民にとって、ヨーロッパ人は機械的であり、精巧な道具や武器を上手につかいこなして目的を達成する生き物ではあるが、魂をもっていない生き物だった。
「われわれは神につかえるために、そして金持ちになるためにここにやってきたのである」。スペインの征服者エルナン・コルテスはこういいきった。彼ら16世紀のスペイン人にとって、2つの目的、商業的目的と宗教的目的のためには、アメリカの先住民が必要だった。征服者は土地と先住民の労働力を手にいれようとし、キリスト教の聖職者や修道士たちは先住民の魂をほしがった。いずれも先住民には破滅的な結果しかもたらさなかった。第1の目的は先住民から自由を、そして多くの場合、生命をうばった。第2の目的は先住民からその文化をうばった。 ただし、16世紀のスペイン人の中には、征服の正当性について深くなやむ人も多くいた。名のある法律家や人文主義者たちは、アメリカ先住民の土地をうばい、先住民をスペインの権威に力ずくで服従させることは、ただしくないと主張した。しかし、スペインでのこうした倫理論争は、先住民にとってほとんどなんの役にもたたなかった。 カナダでは、いくぶん事情がことなった。この地に入ったフランス人の関心は、毛皮交易にあった。先住民はビーバー、ラッコ、マスクラット、ミンクなどの毛皮の供給者であり、役にたつビジネス・パートナーであり、上手につきあう必要があった。フランス人が提供する交易品は先住民にとっても魅力があり、彼らはすすんで毛皮をモントリオール、トロア・リビエール、そしてケベックまで運んだのである。またフランス人は、イギリス人との戦いのために先住民を味方につける必要があった。彼らは先住民を自分たちと平等な人間とみなし、先住民との結婚も当然なことと考えていた。 一方、イギリス人はまったく逆だった。彼らは土地をもとめたために、先住民を障害とみなしたのである。大西洋沿岸部にすみついた大勢のイギリス人は、先住民を力ずくでおいだした。こうして、今日のカナダとアメリカ合衆国とでは、ヨーロッパ人との出会い以後の先住民の歴史が大きくことなることになった。
1492年当時、メキシコ、中央アメリカ、南アメリカのアンデス地域は、南北アメリカ大陸の中でもっとも人口の多い地域だった。しかしヨーロッパ人との接触後、わずか数十年のうちに人口は半分以下、場所によっては10%にまで減少してしまった。その最大の原因は病原菌だった。天然痘、はしかや結核、風邪などの呼吸器疾患、チフス(→ 腸チフス)や赤痢などの消化器疾患に対して、アメリカの先住民は抵抗力をもっていなかった。 伝染病はとくにラテンアメリカで猛威をふるった。アステカ王国の首都テノチティトランやインカ帝国の首都クスコなど、人口の集中した大小の都市や町があったからである。病気によるこの衝撃的な人口破壊も、スペインでの、征服の道徳性をめぐる議論の引き金になった。 カリブ海地域の先住民人口が減少するにつれて、スペイン人は労働力をおぎなうために、フロリダの先住民をさらってくることを思いついた。それでもふじゅうぶんとなると、今度は西アフリカから奴隷を輸入し、サトウキビ畑や銀の鉱山ではたらかせることにした。 運よく生きのこった先住民は、村ごと植民者や鉱山経営者に管理された。これがエンコミエンダという制度で、実際は奴隷制度とかわらなかった。先住民の力は精神的にも肉体的にも弱くなり、その結果、ヨーロッパ人のもたらした病気にかかりやすくなった。 深い森林の中で、人々が分散してすむことが一般的なカナダでは、はじめのうち病気の被害は少なかった。しかし、イエズス会が伝道所を設立するや、伝染病が流行し、深刻な人口減少をまねいた。
独立をはたしたアメリカ合衆国は、その憲法の中で、「議会は外国、州、そしてインディアン部族との商業を調整する…権限を有する」とさだめた。以来200年以上もの間、先住民に関する法はこの憲法の規定に根拠をもつことになる。 18世紀の終わりごろ、「新しい」アメリカ人たちは土地をもとめて、アレゲニー山脈やブルーリッジ山脈(→ アパラチア山脈)をこえ、オハイオ川流域、ケンタッキー、テネシーなどに入りこんでいった。そこはまだ多くの先住民族が伝統的な生活をいとなむところであり、したがってこれらの移住者は先住民の土地を不法に占拠したわけである。結果は明らかで、戦争がおきた。1795年、グリーンビル条約がむすばれ、「インディアン・テリトリー」と白人の居住地とがはっきりと区画されることになった。しかし、人道的な考え方をもったワシントンの政治家とはちがって、オハイオやケンタッキーで直接先住民と接触し、利害をことにする白人たちは、先住民を邪魔者と考えた。白人の移住と開拓の前線では、紛争や衝突はたえることがなかった。
|
© 2009 Microsoft
![]() ![]() |