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項目構成
そして学童期の終わりごろから青年期にかけて、論理命題が理解できるようになり、不変項の認識は具体的な操作によってではなく、形式的な操作、たとえば数式における移項、結合などによって可能になってくる。これによって、仮説をたてて実験したり、計画をたててそれを実行したり、結果にもとづいてそれを変更したりというような高度の思考が可能になってくる。ピアジェはこれを形式操作的知能とよび、ここにいたって科学的思考を可能にする知能が完成段階に達するとした。
人の乳児の発達には母性的養育が必要不可欠である。この母性的養育はたんに哺乳、清潔といった身体的ケアにとどまらず、養育者の子供へのじゅうぶんな愛情をもふくむものであり、それを欠けば乳児は元気にそだっていくことができない。この乳児の絶対的依存が養育者の母性的な傾倒的関与をもたらし、その傾倒的関与によってはじめて、乳児は養育者に基本的信頼をよせていくことができる。それは3カ月ごろに養育者があやしかけると喜色満面の笑顔をみせるようになるところに端的にあらわれている。その後、養育者とのおもちゃや事物を介した遊びをとおして、楽しい思いを共有することがふえ、それをばねにしてしだいに2者間に「やりとり」の構造ができあがってくる。養育者のすることをまねる動きもあらわれ、オツムテンテンなど、養育者といっしょになってたのしむようになる。→ 母子関係 乳児にとって、このように信頼をよせる養育者がしだいに「重要な他者」となるにつれて人見知りがはじまり、養育者の後追いや分離への抵抗があらわれてくる。また、養育者の意図や表情がわかるようになって、その意図にしたがったり、事物への接近・回避の手掛かりにしたりするようになる。言葉はまだ話せないにもかかわらず、身振りや表情や多様なトーンをもった音声によって、養育者とのコミュニケーションがしだいに円滑になってくる。
諸能力の向上とともに行動世界がひろがり、赤ちゃんの世界を脱して家族の一員となっていく。そして、養育者と一緒に家の外にでる機会もふえてくる。こうして、それまでの養育者や家族とだけの対人関係からよりひろい対人関係へとしだいに移行していく。親が戸外につれだすことによって、あるいは早期保育の場の中で、同じ年頃の幼児とともに遊びの場を共有するようになり、少しずつかかわりあうようになっていく(安全基地を背景にした対人世界の拡大)。 3歳ごろになると、もはや養育者とだけのせまい世界には満足できなくなり、同じ年頃の友達をもとめるようになってくる。このころには、しつけもはじまって、信頼と自信を背景にした強い自己主張と、親のしつけへの従属とのむずかしい局面をしばしば経験し、自己主張と譲歩の両面を少しずつ身につけはじめていく。親の賞賛、叱責に関連して、喜び、満足、自信、意気消沈、不満などを経験し、さらに兄弟関係や友達関係の中で、羨望(せんぼう)、嫉妬(しっと)、みせびらかしなどの、複雑な情動を経験するようにもなる。また、友達関係の中では自分のこうしたいという思いが強いために、友達をもとめながらもおもちゃの取り合いが頻繁におこり、いっしょにあそんでいても、そのめざすところがかみあわないことがしばしば生じる(平行遊びとよばれている)。 それが5歳ごろになると、集団生活の中で少しずつ保育者のいうことにしたがうことができ、また友達の力関係も少しわかって、その場に応じた対人関係がかなりとれるようになってくる。気にいった友達ができるようになり、遊びに役割分担があらわれ、リーダー対フォロワーの関係もあらわれはじめる。他の子供の気持ちに共感したり、年下の子供にやさしくしたいという気持ちの動きもあらわれてくる。→ 依存と自立
秩序にしたがい、決まりをまもるという学校環境に適応する中で、一般的には「よくまなび、よくあそぶ」時期といわれてきた。しかし今日では、家庭でも学校でも大人たちが「できる子かどうか、よい子かどうか」と評価的なまなざしを強くむけてくるために、相当数の子供が強いストレスを感じるようになってきている(小児心身症の増加)。しかも、それが大人との関係ばかりでなく子供どうしの関係にまでおよび、グループの作り方、友達関係の持ち方に影響をおよぼし、不登校や「いじめ」などのむずかしい問題につながっている。その中で、教師の評価と友達の評価との板ばさみになるいわゆる「ぶりっ子」の悩みをもつ子供もあらわれ、子供どうしの世界の中で、仲間集団への参加と排除のきびしい力学が子供の心に影をおとすようになってきている。
発達と教育の関係の問題は、ある年齢の子供にどのような教育カリキュラムをあたえるかを考えるときにうかびあがってくる。一面では、それは子供のレディネス(それをうけいれる用意ができていること)にあわせたものでなければならない。さもなければ教育効果を期待することはできない。しかし他面では、教育がそのレディネスをつくりだすという考え方もなりたつ。ここに、子供にあわせた教育をめざすのか、子供の発達を促進する教育をめざすのかという、一見相反する視点があらわれており、それが早期教育の是非論へとつながってきた。 この二者択一的な視点をのりこえるのがビゴツキーの発達の最近接領域という考えである。ビゴツキーによれば、子供の発達を促進するには、子供の今の力を一歩こえたところ、しかし潜在的にはそれがあらわれてもおかしくないほど力の準備のととのったところに、はたらきかけなければならないという。 たしかに教育には子供を実際にかえていく大きな力がある。発達の遺伝・成熟説があるにもかかわらず、どのような教育をあたえるかによって、子供の能力発達の実態は変化する。レディネスにしても、ビゴツキーの考えにもとづけば、教育によってそれを形成するのだという形成レディネスの考えがなりたつ。そして、能力の向上・促進が一般には価値あることと考えられるために、「より多くの教育が、よりよい発達をもたらす」という暗黙の常識を生み、能力至上主義的な文化環境をつくりだすことにもなった。
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