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項目構成
発達と教育の関係を能力促進という側面だけでみるのではなく、子供の人格の発達との関連でみてみると、上記とはちがった様相があらわれてくる。教育はある面では大人の社会が文化伝達を意図して用意した鋳型に子供をはめこむ行為でもある。それは「子供のかがやかしい未来のために」という幻想のベールをまとってはいるが、一面では強引に有無をいわせずそれにしたがわせてしまうひとつの力の装置でもある。この観点からみれば、より多くの教育は、より強い力の下により長く子供をとどめることを意味する。この教育の二面性は発達の二面性、つまり能力発達と葛藤増大の二面性に対応する。しかも、子供の評価が能力評価中心に展開されるとき、それが子供の自己性にどのようにはねかえるか、そしてそれが自己性の発達にどのように影響するかが大きな問題になってくる。 このような発達の問題と教育の問題が微妙にむすびつく中で、現行の不登校問題やいじめ問題があらわれてきている。ここにも発達を個体能力発達という一面だけで裁断できない理由がある。発達は機能完成にむかうよろこばしい過程であるだけでなく、大人の鋳型にはめられ大人の心理的な圧力を身にかぶって、その中で子供がしだいに自己をつくっていく過程でもある。それゆえ発達心理学はたんに子供の能力発達を外側からながめて記述するだけではじゅうぶんでなく、子供が発達によってどこにむかうのかを問い、その行く末をみつめなおす視点をもっていなければならないだろう。
純然たる子供から大人への過渡期にあたるこの時期は、思春期ともよばれ、子供的な大人と大人的な子供の同居した、むずかしい発達の一時期をつくっている。
それはまず第2次性徴とよばれる身体生理的・性的な変化となってあらわれる。男子では急速な身長の伸びとともに、体毛の発毛、ペニスの勃起(ぼっき)、射精といったまったく新しい体験が生じ、女子ではメンスの開始、女性らしい体形への変化となってあらわれる。それらの変化とそれにともなう諸体験が青年にどのようにとりこまれ、自己に沈殿するかがこの期の発達の重要な問題となる。それは男性、女性という自らの性をどのように身にひきうけていくかにかかわるとともに、性への関心、自慰行為のはじまり、秘密の発生など、青年の心に微妙な襞(ひだ)をきざみこんでいく。
それに呼応して、この時期は自意識にめざめる時期でもある。それまで、もっぱら外側をみるだけであったものが、人からみられる自分に気づき、自分を意識し、そして自分で自分をみるという自己二重化が進行する。みる人とみられる人という二分法は、いわゆる私的自己と社会的自己に分裂していく契機ともなる。そこに、自分は他者にどのようにみられているのか、どのように思われているのかという「不幸な問い」も生まれる。そして人前でみせる顔(社会的仮面)をいまだ容易にはつくれないがゆえに、とっさの場面ではげしい羞恥(しゅうち)を経験することにもなり、それとともに、自己を対象化し、自己概念をかたちづくる地平がひらかれる。
他方、身体的成長はもはや子供ではないという思いを強め、親への反抗や親といっしょの行動を回避するというかたちで、親からの自立をうながす。しかし親への潜在的な依存欲求が依然としてあり、それが表面的には友達への依存へとかたちをかえる。本来、友達関係には、仲間に連帯をもとめつつも自分は自分であるという孤独を経験し、それによって強い自我をかたちづくるという契機もふくまれている。しかし、今日の日本では、孤独が孤立と錯覚されてきらわれることもてつだって、仲間集団からの孤立と排除を極度におそれ、友達関係に過度に依存するという日本の青年に特有の心理をみちびく。そして、いじめられてもその集団に準拠せざるをえないため、そこからぬけだせないという二重拘束的な集団力学が生まれ、いじめ問題を複雑化していくことにもなっている。
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