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項目構成
こうして、エリクソンのライフ・サイクル論は今日の生涯発達論にひきつがれてきた。それはたんに、それまでの能力発達論的な発達心理学に成人期以降をつぎたしたものではない。それはむしろ、誕生から死への生涯過程において、(1)個体能力の増大・減衰の次元、(2)対人関係の多様化・深化の次元、(3)社会・文化的な制度や慣習の影響の次元という3つの次元がからみあい、いくつかの節目をかたちづくりながら時間的に変容していくという視点を一貫してもつということである。 このようなライフ・サイクルを重視した生涯発達心理学の視点に関心がもたれるようになったのは、ひとつには通常の発達の裏側に、平均から逸脱した「つまずく」子供やその親の問題があることが発達臨床心理学的観点から強調されるようになってきたからであり、いまひとつは高齢化にともなう老年期と死の問題が人々の関心をあつめるようになってきたからである。→ エージング
生あるものはいつかは死をむかえねばならない。生涯発達の終末段階の課題は、老いと死をめぐる問題に各自がどのように対処するかである。これまで死はいむべきもの、さけるべきものとして、生の対極に位置づけられ、発達心理学の学問的関心からも遠ざけられてきた。しかし、いまや認知症(痴呆:ちほう)、介護、独居、孤独、尊厳死等々、老年期固有の問題が社会的関心をよび、研究者自身が「他人ごとではない」自分の問題としても考えねばならなくなっている。それは平均寿命の伸びとともに、病気をしないかぎりだれもが80歳過ぎまで生きる時代になったからであり、しかも、これまでにそのような高齢化社会を文化として経験してこなかった中で、高齢化を生きねばならない状況が生まれたからである。→ 老年学:老年医学
要するに、これまでは死の病とたたかい、それにやぶれて、人格としての尊厳をたもちながらも命をうばわれるというのが死のあり方であった。それに対して、認知症が悪化し自分がだれであるかもわからない、尊厳をうしなった状態で死をむかえるということに、われわれみながとまどい対処しかねているということである。 老いを支配するのも遺伝子プログラムである。だれもがいつまでもわかくと思いながら、老いは確実におとずれてくる。視覚がおとろえることによって、文字がよみにくくなり本がよめなくなる。聴覚がおとろえることによって人の話がききとりにくくなり、コミュニケーションがおっくうになる。平衡感覚がおとろえることによって、ちょっとバランスをうしなっても復元することができずにころび、骨折する。その経験がおそろしいので散歩ができず、さらに運動機能の衰えが加速する。要するに、老いは確実にかつての広大な世界を縮減してしまう。それはふせぎようのないひとつの宿命であるが、しかし、機能の不使用がさらに機能の衰弱を進行させるという悪循環をまねいてもいる。
乳児期は子供の機能の未熟を養育者が補助することによって、あたかも乳児がその機能をもっているかのように事がはこび、それによって乳児は自らの力以上の世界にはやく参入することができた。老年期にもそれと似たようなことが生じる。つまり、単独では転倒がおそろしくて散歩にでられなくとも、だれかが手をさしのべて介助してくれることで散歩にでることができ、運動機能の過剰な衰えをふせぐことができる。この場合、介助のあり方が機能の衰えの進度をある範囲で緩和すると考えることができる。あるいは手すりがあることによって、または杖があることによって、老人の運動機能の衰えは相当にカバーすることができる。
おとろえた機能の可能な補助や介助に関するこれらのノウハウを、われわれの文化は今ようやく手にいれかけたところである。いっぽうでは、そのような機能的衰えを緩和して、それまでの生活を可能なかぎり長く持続しようという「対策」がある。しかし他方では、そのような衰えに正面から対抗しようとするのではなく、むしろそれをも自然なこととして受容する心の持ち方が重要だとする見方もでてきている。それは死を敵視するのではなく、人生の終末に固有のものとして受容する精神である。
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