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1894年(明治27)7月~95年4月に、朝鮮の支配をめぐっておきた日本と清国(中国)との戦争。中国では開戦年の干支から甲午中日戦争とよばれる。
明治政府の成立以来、日本は朝鮮への進出を重要な外交政策としていた。これに対して清国は以前から朝鮮を属国とみなしており、両国の対立はさけられない情勢だった。1876年(明治9)、日本は前年の江華島事件を機に日朝修好条規(江華条約)をむすび、鎖国状態にあった朝鮮を無理やり開国させて政治的・経済的・軍事的に進出しはじめた。この条約によって朝鮮を独立国としてみとめ、清国に対する従属関係を否認した。朝鮮では親日派が台頭し、84年に甲申事変とよばれるクーデタがおこったが、清国の出兵によって失敗におわった。翌85年、この事件で悪化した日清関係を打開するため天津条約がむすばれ、朝鮮に出兵する場合には相互に通知することとなったが、条約締結後も両国の対立はつづいた。 開国による外国製品の流入で朝鮮の自給自足経済がくずれ、外国勢力の排斥をもとめる民族的運動が高まると、朝鮮政府は1889年に防穀令をだして日本への米の輸出を禁止した。社会矛盾が激化する中、94年春には民族的な新興宗教東学を信仰する農民の反乱が各地でおこる。この甲午農民戦争(東学党の乱)をしずめるために朝鮮政府の要請で清国が出兵、日本もこれに対抗して出兵したが、出兵の前に農民軍は政府と和睦して解散していた。しかし、その後も朝鮮の内政改革をめぐる両国の対立が強まり、ついに日清戦争に突入した。
1894年7月25日、豊島沖の海戦をきっかけに両国の戦闘がはじまり、8月1日に日本が宣戦を布告。9月には日本軍が清国の拠点である平壌を陥落させ、黄海の海戦でも大勝した。ついで旅順、威海衛を占領。旅順占領では大山巌を軍司令官とする日本軍第2軍による残虐行為が世界じゅうから非難されたが、戦争は軍隊の装備・戦意にまさる日本側の優勢のうちにすすんだ。
1895年4月、日本全権伊藤博文・陸奥宗光と清国全権李鴻章との間に講和が成立して下関条約(日清講和条約)がむすばれ、戦争は終結した。日本は約2億円の戦費をつかったが、これは当時の国家予算の2倍以上だった。 下関条約の内容は、清国が(1)朝鮮の独立をみとめ、(2)遼東半島・台湾・澎湖島を日本にゆずりわたし、(3)賠償金2億両(当時の日本円で約3億1000万円)をしはらい、(4)新たに重慶ほか4つの港市をひらく、などであった。しかし、満州(中国東北部)への進出をねらうロシアが反発し、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清国に返還するよう日本に要求した(三国干渉)。日本は対抗する力がないと判断して要求をのみ、その代償として清国から3000万両(約4500万円)をえた。以後、日本はロシアに対する国民の敵意を増大させ、軍備の拡張を中心として国力の充実をはかった。 三国干渉ののち、ロシアは旅順と大連、ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは九竜半島と威海衛を租借するなど、列強各国が中国分割にのりだした。日本も遼東半島を返還したものの、新たに領有した台湾の統治をすすめた。
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