Windows Live® の検索結果
Windows Live® の検索結果 項目構成
17~18世紀の間にヨーロッパで確立され、追求された芸術のスタイルないしは運動のことを古典主義という。特徴は、古代ギリシャ・ローマの芸術の作風を継承し、それをモデルに美学上の規範および法則のゆるぎない体系をつくりあげたことにある。そこでは簡素、調和、均整、威厳、真実らしさ、礼節などの美的特質が重視され、先行するマニエリスムやバロックにみられるような感情の表出、不自然なまでの技巧や装飾は排除される。また、普遍的理性や、表現形式の規則性を重んじた古典主義に対する反動として展開したのが、ロマン主義である。 絶対主義(→ 絶対王政)の時代に生まれ、展開した古典主義は、宮廷貴族の文化の側面を強くもち、ルイ14世の時代(1643~1715)のフランスで最盛期をむかえ、そこからヨーロッパのほかの国々へと広がっていった。「古典」すなわち「クラシック」という言葉は、「第一級の」という意味をあらわすラテン語のclassicusからきている。 → 古典主義(美術)
古典主義にあっては、作品構成の理論としての「詩学」がことのほか重視されるようになった。それはアリストテレスの「詩学」(前330頃)とホラティウスの「詩論」(前23~前20?)にはじまり、ルネサンス期にあらわれた両者の注釈をへて、イギリスのフィリップ・シドニーの「詩の擁護」(1595)、およびドイツのマルティン・オーピッツの「ドイツ詩論」(1624)へとつづいてきた系譜に属するものである。 もっとも重要な古典主義の理論家とみなされているのは、フランスの詩人ニコラ・ボワローである。彼が古典主義の理想をまとめた「詩法」(1674)においては、調和にみちた均整、論理の明確さ、言語表現の正確さ、詩のスタイルの遵守といった美学上の原則が重要であると強調されている。この時代の美的趨勢(すうせい)に則したボワローの立場は、批判的精神にも裏打ちされ、古典主義に信頼できる指針をあたえることになった。
フランス古典主義を代表する作品は演劇の領域で生みだされている。そこではアリストテレスのあやまった解釈にはじまり、ボワローが「1つの場所で1日のうちに1つの行為だけが完結されること」と規定した「三単一の法則」(三一致の法則、三統一の法則とも)のような演劇の規則がまもられる一方で、古くからある規範に手がくわえられ、つくりかえられていった。 この時期に活躍した劇作家として名前があげられるのは、ふつうピエール・コルネイユ、ジャン・ラシーヌ、およびモリエールの3人である。コルネイユはスペインの英雄をえがく「ル・シッド」(1637)によって古典主義悲劇を確立し、ラシーヌは古代ギリシャ・ローマの題材をもちいて「アンドロマック」(1667)や「フェードル」(1677)など悲劇の傑作をつくりあげた。モリエールは、喜劇よりも悲劇のほうが高尚であると考えられた時代にあって、「タルチュフ」(1664)や「人間嫌い」(1666)などの作品によって、喜劇が悲劇に少しも劣らないことを証明した。→ 喜劇
古典主義に通じる立場を比較的はやい段階ではっきりとしめしたのは、ロンサールを首領とする16世紀フランスの「プレイヤード詩派」の詩人たちだった。その宣言書となる「フランス語の擁護と顕揚」(1549)の中で、メンバーのひとりデュ・ベレーは、古代の文学の模倣をとおしてフランス語の表現力を豊かにする必要があると主張している。 この流れをくむフランス古典主義の詩にあって、もっともよく知られているのは17世紀の詩人ジャン・ド・ラ・フォンテーヌである。彼がギリシャのイソップ寓話(→ イソップ)などから取材して書いた240編にもおよぶ「寓話」(1668~94)は、古典主義の詩の理想を実現したひとつのかたちとみなされている。ラ・フォンテーヌがモリエール、ボワロー、ラシーヌらと親交をむすんでいたことはよく知られている。 18世紀になると、旧来の秩序に批判的な啓蒙運動がはじまり(→ 啓蒙思想)、古典主義の主題の多くがその中でうしなわれていくが、それでも理性を尊重する態度はひきつづき維持されていた。この観点からすると、啓蒙運動において中心的役割をになっていた百科全書派のボルテール、ディドロ、モンテスキューなども、古典主義の伝統を継承していたと考えられる。→フランス文学の「17世紀、古典主義の時代」
|
© 2009 Microsoft
![]() ![]() |